そろそろ皆忘れている頃だろう「学術会議」の問題点: 政府に提言出来る立場に就くならば、政権批判は「してはいけない」。

" 政府に提言出来る立場に就くならば、政権批判は「してはいけない」。"

これが大前提である。
こういうことを言うと、「政府を批判してはいけないのか! 学問の自由を侵害している!」とか噴き上がる人もいるだろうが、よく前提を読んでもらいたい。

政府に提言出来る立場に就くならば、その政府の存在そのものや、政府の出してきた案を根本から批判してはいけない。案を実行するのは大前提である。実行にあたり、どうすればよりよい方向にいくのかを考えて意見を出すのが仕事である。

何故、根本的な批判がダメかというと、そんなことやってたら話が進まないからだ。
普通の会社の会議で考えてほしい。経営会議で、今後はAと市場に注力して開拓して行きましょう、と決まったとする。で、どうやってその市場を開拓するかを相談する会議が開かれたとしよう。その会議の場で、「Aという市場には将来性がない。私は反対だ!」と批判的なことばかり言う人が出席していたとしたら、どうだろうか?

話が進まないどころか、むしろ足を引っ張っている。不必要な存在でしかない。

この例の場合、どの市場に注力するかを決める会議は既に終わっていて、その反対意見を述べている人には決定権がないのである。
目の前の現実として、既にAという市場に注力することで話を進めようとしている会議において、そもそもの決定を覆そうとしてはいけない。なぜならそれは、その人の権限ではなく、その場にいる役割でもないからだ。
今さらそこに文句を垂れるような人は邪魔にしかならないし、自分の気にくわないからといって協力しないのであればそこに居る必要がない。

指名されたのが、もしこのような人材だった場合は、任命拒否をされて当然というか、むしろ拒否しないとお金と時間の無駄になる。
学者側が、自分たちの意見がすべてにおいて正義だと思っているならそれは誤りだ。社会人の基準に照らし合わせるなら、求められる役割を果たせない者はそこにいてはいけない。


「政権が出してきた案に対して意見するべき人」が、そもそもの前提である政権に対する批判から開始してはいけない、というのも、求められる役割ではないからだ。

その政府で行くことは国民全体の投票によって既に決定されている。政策も原則として民意に沿って行われる。それがこの国の政治の基本だ。だからこそマスコミや声のデカい活動家はまず民意を揺らがせようとあの手この手を使うのだが、そこに乗っかって反政府活動をする人が"政府に提言する"という席に座る資格はない。これは、会社の経営方針に対して案を出そうという会議に、会社に不満を持ち、その話ばかりぶちまける人が入ってくるようなものである。その話はそこでするべきではないし、足を引っ張るだけで何ら有効な話の出来ない専門家は、その場に要らない専門家なのだ。専門家としてどうこうというよりまず社会人としての一般常識がダメ、自分の仕事が判ってないんだから。

そして、どこの政党に国政を任せるか決めているのは国民なので、その決定に文句を垂れるのは民主主義の否定でもある。むしろごく一部の、政治学が専門なわけでもない門外漢の学者の意見で国政が動くほうが独裁的だしヤバい。これも一般常識レベルの話だろう。


そして、専門外のことまで自分の意見を喚いて足を引っ張るだけしか出来ない人が問題となるのは、日本の場合だと、たとえば国防についての政策である。

現実問題として、この国の隣には領土拡張を目の前で強行しつつある中国があり、オリンピックの直後に力づくでクリミアを併合した実績を持つロシアがいる。防衛問題は国の政策としては基本中の基本で、考えずに避けて通れるものではない。
そこへきて、憲法が守ってくれるなどという夢物語を語る人や、武力行使はいかなる場合も良くないなどという宗教じみた思想を掲げ、現実から乖離した理想論をぶち上げる学者が政府に提言する立場にいたらどうなるだろう?

学問だけやってれば生きていける人はいくらでも自分の理想の世界に閉じこもっていればいいのだが、政府が対面するのは現実世界だ。学者は何を信じようと論じようと自分で責任が取れるが、国は国民全体の命に責任を負っている。目の前にある現実に対する対応策を求めている時に、現実にそぐわない理想論をぶち上げるしか出来ない役割を理解出来ていない学者は「不適切」なのである。


政府に提言出来る立場に就くならば、必要とされるのは、その政府が出してきた案に対して「前向きに」、自分の専門ジャンルで専門家として有用なアドバイスをして、よりよい施策が出来るよう「協力的な意見を出す」することである。
それが出来ないなら、最初から提言のポジションに就いてはいけない。その席は他人に譲るべきだろう。


そして、たとえどれだけ今の政府が気に入らなくても、学者には協力しなければならない理由がある。


実際に起きた悲劇を紹介しよう。
湾岸戦争当時、ブッシュ政権に反感を持つ(主に)リベラル派の考古学者は政権に批判的で、非協力的だった。
イラクの首都バクダットが空爆されようという時になり、一部の考古学者は、バクダットにある国立博物館の貴重な収蔵物が略奪される可能性や、バクダット周辺の遺跡が空爆目標となってしまう可能性に気づき、ブッシュ政権に働きかけようとしていた。

それに対し、政権に批判的な学者たちは協力しなかったどころか、政権に働きかけようとした仲間を親ブッシュ派だとして批判するばかりだった。

結果はどうだっただろうか。
多くの貴重な遺物が今も失われたまま、被害は甚大だ。ひどい悲劇だったと思う。

何もしなかった人々が後になってブッシュ政権を責めるのはお門違いだ。はっきり言えば、これは自分の主義信条のために自分の職務を放棄した、学者たちの怠慢の問題でもあると思う。

現実問題として、人文学者に戦争を止めることは出来ず、政策や軍事作戦に口を出す権限も無い。どれだけ声高に叫ぼうとも目の前の現実は変わらない。であれば、その現実に対する最善の策を打つのが正解だった。しかし、理想を真っ先に振り回した人々は、結局、現実に対して何ら有効な手段を打つことが出来なかった。

コトが終わってから「あの政権はダメだ」などと声高に叫んでも意味が無い。そんなことをしても、失われたものは戻ってこないのだ。
動くなら、コトが起こる前であるべきだった。起きうるべき問題を防ぐべく有意義なアドバイスが出来るのは専門家たちだけだった。何度も言うが、本当に、政権が嫌いだとか政策が自分の好みじゃないなどという理由で協力しないのなら、専門家は、居る意味がないのだ。



学術会議の問題も、これと同じである。
協力もしないくせに何か問題が起きると声高に政権批判をするのでは、結果として、専門家は存在する意味を失くしてしまう。そうなれば、専門家はもはや一般人の役に立たない隔離された世界の住人となり果て、「学問のために金を使え」だの「学問には意味がある」だの叫ぶことも許されなくなる。

専門家の椅子にあぐらをかいて、何か自分が特別な存在だと思ってしまっている人もたくさん見て来た。
そうではなくて、必要なのは 社会人として、役目を正しく認識してそれに対して仕事をする ということだ。しょせん一人の人間なのだと、まずは襟を正すところからではないだろうか。

個人の政治的な思想は自由だが、社会人ならば己の立場を理解した上でその立場に必要とされる動きもしなければならない。
理想と現実、政治の場で採るべきなのは間違いなく後者なのだから。