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zoom RSS 競技登山とは違う「修行のための登山」。山岳信仰についてちょっと調べてきた。

<<   作成日時 : 2018/05/02 00:10   >>

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前提として、いま現在行われている「登山」のほとんどは「スポーツ登山」になる。山頂を目指して山を登り、お弁当食べて、また山を降りてくるという登ること・山を歩くこと自体が目的の登山。

山岳信仰でいう登山は山を聖域とみなしお参りのために登るか、山を修行の場とみなし、教義思想を持って修行する、といったものになる。同じ「登山」だが、目的も内容も全く異なる。

(ちなみにこれ以外だと、山菜とり・狩猟のため、林業のため、などの登山がある。)


というわけで、同じ「山に登る」という行為でも、スポーツ登山と山岳信仰の登山は目的も違えば、登り方も違うものになる。そもそも山岳信仰は、聖域のある山、修行の場である山に登るものなので、登山の対象が特定の山である。その山ごとの信仰のあり方をコンパクトにまとめている本を見つけたので読んでみた。

山岳信仰 - 日本文化の根底を探る (中公新書)
中央公論新社
鈴木 正崇

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著者は自身でも山登りをしているらしく、山が好き、ということがよくわかる書き方になっている。山岳信仰は山と向き合うものなので、そもそも山に登ったことがない人だと書けない。

山には、実際にその場にいってみないと分からないことが沢山ある。
あとがきに書かれている「修験にとっては文字はたてまえに過ぎない」「重要なことは実践や体験である」というのは真理だと思う。山岳信仰の内容や修験道の本質を知りたければ、文献だけ紐といても知れることには限界がある。修験者が歩いた道を何度も歩いてみて、その「場所」に触れなければ理解出来ない。

これは精神論とかではなく、五感の視覚以外で受け取る情報の中には、文字に出来ないものがたくさんあるということだ。たとえば雲海の写真を山登りしたことない人に見せれば、ああ綺麗ですねとか、すごいですねとかは言ってもらえると思うけど、空気めっちゃ薄いとか、ひたすら風の音が聞こえているとか、雲海からの太陽の光の照り返しで眩しいとか、雲海が見えてる時点で3,000m近い場所なので夏でも寒いとか、息が上がってくると口の中の唾液が鉄臭い味になるとか、そんなのは実際にその場にいったことのある人じゃないと分からない。そしてこれは、言葉で書いて伝わるようなものではない。

そして、この本が面白いなと思ったのは、著者が実際に山を歩いているからだろうか、ただのファンタジックな文献研究にならず現実に足を置いたまま論じているところだった。なんといっても、山歩きはキツい。現代の性能のいい登山装備で登っても、体力と知識を要する。歩きにくいわらじで崖をよじ登る修験道がキツくないわけがない。しかし、そのキツさを乗り越えないと至れない境地がある。その前提を判って書いてる感がある。

うちの田舎のほうでは、最寄の山岳信仰の山は剣山だった。
そしてちょっと先に石鎚山があった。

山で悪さをすると祟られるとか、山には死者の魂が集まる日があるとかいう話はじーちゃんばーちゃんから聞いてなんとなく覚えていたのだが、この本を読みながら、なるほど他の地域でも似たような(でも少し違う)山への信仰があったんだなぁと思いだしていた。百名山制覇を目指すような登り方をしていない登山者の多くは、あまり意識しないまでもなんとなく山岳信仰めいた思想を持って山に来ているのではないかと思う。体系化された教義になっていないまでも、山への信仰という思想は日本全国あちこちにあるもののはずだから。


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で、この本を手に取ることになったそもそもの理由は、山岳信仰における「女人禁制」について調べたかったから、である。女性差別だ!のように騒がれることの多い女人禁制だが、本来の意味に女人を禁ずるという意味は、どうやら薄いようなのだ。差別的に聞こえる「禁制」という言葉になったのが明治以降くらいで、それ以前の元の呼び方は「結界」だったようだ。

先に書いたように、山岳信仰は山を聖なる場とみなし、修行・信仰の対象とする。信仰の場として清浄を保たねばならないとした場合に、日本の伝統的な宗教思想として、血の穢れは禁忌である。(日本の、と書いたがこの思想は世界のほかの地域にも結構ある)
女性の月経、出産はともに血の穢れを伴う。男性ももちろん、血に触れた者はダメなのだが、女性の場合は周期的に毎月月経がくるので、禁忌に触れない時期がほとんどない。結果的に、女性は全面禁止に近い状態となる。

ちなみに、山が修行・信仰の場である以上、男性でも、修行者など関係者以外は立ち入り禁止というのが大元の「結界」の思想だという。これならわかりやすい。

ただし、これには注釈が必要と思われる。まず、山岳信仰は文字記録からすべてが遡れるわけではない。また、山によって思想が異なる。

本で紹介されている中で、羽黒山は女性の参拝OKだった、となっている。熊野もOK。不浄を嫌う結界は、必ずしも聖域となる山に設けられるものではないらしい。

立山では、女性の登山が禁止されているかわり結界の入り口に女性の参拝用の姥堂(うばどう)があったという。うば、おんばというのは、醜い老女の姿をした山の女神で、冥界の女神であり、イザナミと重なるイメージを持つ。母なる山の体現だという。これも山が死者のゆくところ、他界の入り口という思想に繋がっている。
ちなみに「うば」の字は女へんに田が3つの漢字があてられていて、この女神には閉経を迎えた61歳以上の老女が衣を編むことになっていたという。

石鎚山はお山開きの時期は女性の登山が禁じられるが、特に月経の血の穢れに厳しく、参拝の時期は月経中の女性を退避させる小屋があったという。今でこそ石鎚山はふつうに女性も登る山だが、昔は死者の魂の集まるところという思想が強くて、生命を生み出す側の女は登るべきではない山だったという話は聞いたことがある。

それぞれの山に、それぞれの思想がある。結界をもうけた理由も、女性を拒んだ理由も、それぞれにある。
だから一律に「結界など解除してしまえ」というのは、伝統と思想の否定を意味する。「女性差別だ!」と騒ぐのは、内容を理解していないことになる。

この本では一端に触れただけに過ぎないが、女人禁制の裏側にある「伝統の意味」を知ることが出来たのは、たいへん有意義であった。



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