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zoom RSS ケルト美術って言われてたものもケルトじゃない→ヴァイキング美術「貴方と…ひとつに…なりたい…」

<<   作成日時 : 2017/06/17 00:10   >>

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というわけで、「島のケルトがケルトじゃなかった」の話からの続き。どんどん行きますよー!

皆たぶんうっすら思ってたと思うんだ、「ケルト美術とヴァイキング美術ってなんか似てるな」って。今までのケルト本だと、ケルトの影響がヴァイキングに伝わったとか、ヴァイキングが移住してきて以降ケルト美術がヴァイキングに似るようになったとか書いてあるんだけど、今となっては、それ、ただの言い訳でした。


 皆のイメージしてる「ケルト美術」=
 ヴァイキングの来寇以降= 土着美術+ヴァイキング様式


何しろ島にケルト人来てなかったことが証明されてしまったんで。アイルランドについてはケルト文化が到来した証拠すら薄いっていうのが今の説。ケルトとの関連性で語られてた渦巻き模様もケルト関係なく昔からアイルランドとかで使われてたし…。そんでもって調べてみたらヴァイキング来る以前のケルト美術が島で発達してた証拠もほぼ見当たらなかったんだな。

というわけで、"ケルト美術"はケルトの看板を取っ払って、ヴァイキング美術とあわせて「西ヨーロッパ様式」とかの括りにすると、今までモヤっとしてたところが一気に解決するよ! というお話。


【参考】

以下はいずれも「ヴァイキングの」美術品です。めっちゃケルトと似てるんですけど? と思ったのなら大正解です。そう、めっちゃ似てる。「お互いに影響しあってたから似てるのは当然で、そもそも分けて考えるのは間違いなのでは」ということ、もう一歩進めて「そもそも"ケルトの伝統"なんて最初から存在せず、島の"ケルト様式"はヴァイキング美術と出合って初めて誕生したのでは? というのが言いたい内容です。

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【前置き】

今までもその界隈の人たちは、「島のケルトって大陸との繋がりが薄い」「しかも年々繋がりが薄くなってきてる」ってことは知ってたわけです。が、薄毛を認められないお父さんの如く、色々言い訳してお茶を濁すか遠回りな感じで表現してました。空気読まない中の人が単刀直入にズバっと書いちゃっただけで、ケルトと名乗れなくなるのは時間の問題だったと思いますよ…だって現状もう、「今までそう呼んでたから」くらいしか名乗る根拠が残ってないんですもの。


というわけで、ここで確定している事項をもういちどおさらい。

 A-1 ブリテン島にケルト人が渡った痕跡がほぼなく、移住者がいたとしても少数と考えられる
 A-2 大陸側と交易はしてたので文化の一部は伝来している可能性がある

 B-1 アイルランドには、そもそもケルト文化が伝来した明確な証拠がない(考古学)
 B-2 大陸からケルト人の移住した証拠が出てこない(遺伝学)
 B-3 かなり早い段階でブリテン島と関係が断絶していた可能性がありアイルランドの言葉=農耕と一緒に伝えられた前3,000年くらいの言語と思われる/ケルト人の言葉とは遠い…? (言語学)


確定している事項と書きましたが、それは事実としての話であり、学説としての決着とは異なります。

例えばB-1の場合、今後なにか有力な証拠が発見される可能性は無くは無いです。ただし今まで色々発掘して十分な証拠が出てこなかった、というのが「確定事項」であり、かつての説が転換を迫られている状態になります。データをどう解釈するかで学説は変わるので、B-2,B-3も同様に、今後解釈の仕方が変わる可能性はありますが、とりあえず今の方向として指し示されているのは、

 「大陸から島にケルト人が移住してきた/ケルト文化が到来したという説はもはや支持できない」

という一つの解です。


何か一つの大きな発見があって唐突に出てきた説ではなく、年々証拠が積み重ねられて段階的に確かさを増してきた話なので、今後も一気に覆されることはないと考えられます。今のところケルトと名乗れそうな根拠は「ケルト語圏だから」くらいしか残ってないんですが、ケルト語内でも差異があるわけで、そもそも大陸ケルトと島ケルトの言語って差異がでかすぎて相互疎通不可じゃねえ? 纏められないよねこれ? とかいう話になってくると、もはやケルトの看板は不適切ではという話になるのもしょうがないのです。



【本題】

というわけで本題の"ケルト美術"の話に戻ります。

「大陸のケルト」と言われている本来のケルト、歴史ケルトには、多数の美術品が存在します。代表的な文化は「ラ・テーヌ文化」と呼ばれるもので、ドイツやフランス、オーストリアなどから出土品があります。時代は前5世紀〜後1世紀あたり。この時代は「ケルト」という民族名称と文化がだいたい一致しており、通常、ラ・テーヌ文化の伝播はケルト人の移動と重なって見られます。(一部合わないところもありますが…)

ちなみにこの時代、ゲルマン人はケルト人の隣人として存在しており、文化交流もあったと考えられます。

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さて島側、ブリテン島とアイルランドの状況を見てみると…
「ケルト十字」と呼ばれるものが出現するのが7世紀以降。ケルズの書などの美しい写本やタラ・ブローチは8世紀以降で、概ね7世紀後半以降に「島のケルト」のケルト美術の主要なところが出てくるとわかります。

ということは、大陸でラ・テーヌ文化が途切れたあと、なんか5-600年ほど不可解な空白期間があるわけですね? 不思議ですよね。でもケルト本には何も書いてないんですよ。良くわかんないけど「大陸」と「島」が繋がってることになってて、美術史としても継承されたことになってる。

そしてこんな感じの記述が成されている。


"スカンジナヴィアからヴァイキングが最初にブリテン島に到来したのは、『アングロ=サクソン年代記』によれば787年のことだった。その後まもなく、有名な793年のリンディスファーン修道院への襲撃があり、さらに806年、『ケルズの書』に着手した頃のアイオナの修道院が襲われて60人以上の修道士が殺戮された。

<中略>

中世ケルト文化の黄金時代は、このヴァイキングの侵入によって絶たれることとになる。
しかしながら、それは中世ケルト文化のいっさいが消え去ったということではなかった。ダブリンやヨークにヴァイキングが住み着くようになって、土着の人間と交わり、貨幣をもたらし、町をつくりあげていったように、その社会的な"結婚"は美術様式においても起こった。「ケルト=ヴァイキング様式」として、11-12世紀に最後の中世ケルト美術を花開かせたのだ。

「ケルトの歴史 文化・美術・神話を読む」河出書房新社"



元々あったケルトの伝統をヴァイキングの到来が壊して、ヴァイキング様式と混じってしまったのだという論旨です。
…が、「黄金時代」と言われている中世ケルト美術は、ほとんど証拠がありません。今残ってる証拠品からして、ヴァイキングがやってきて交じり合ってからが、いわゆる「ケルト美術」の本番のように見える。

実際のところ、ヴァイキングの到来は787年が最初ではありません。記録として残っている最初がそこというだけで、それ以前の時代から既にちょこちょこ来てたことは、今では考古学的な証拠があります。ていうか相手のことをよく知ってたから襲撃できたわけです。
そして、ブリテン島とアイルランドで多少時差はあるにせよ、最初に北欧人(のちにヴァイキングになる人々)がやってきたと考えられるのが7世紀くらいからなんですよ…。

ということは、そもそも「中世ケルト文化の黄金時代」と言われているものは最初からヴァイキングとの交流によって相互に作られたものではないんでしょうか。移住者が増えるとその影響がより強まった(それがケルト=ヴァイキング様式)というだけで。


ちなみにヴァイキング史側から見たヴァイキング美術の歴史は、こんな感じになってるんです。
なんとヴァイキング美術側も、ケルト美術が躍進を遂げたのとほぼ同じ時代にオーセベルグ・ブロワ様式というケルト美術とよく似た様式を編み出してるんですね。

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(日本語でわかりやすい説明ページはこちら
http://www.runsten.info/viking/vikother/vikart.htm)

言いたいことなんとなく判ってもらえましたでしょうか。
というわけでもう一度、最初に書いたことを繰り返します。

 「そもそも"ケルトの伝統"なんて最初から存在せず、島の"ケルト様式"はヴァイキング美術と出合って初めて誕生したのでは?」


少なくとも「ケルト美術」「ヴァイキング美術」って分ける意味あんま無いよね?
これお互い影響しあって相互発展した「西ヨーロッパ美術」って括りで研究しないとダメじゃね?

昔から区別つかないだの似すぎてるだの散々言われてましたが、両者が同根だとすると当たり前だろって話です。むしろなぜ今まで別扱いにしてた。同じ美術様式がスカンジナヴィアとブリテン島・アイルランドの両方に広まって、それぞれ独自にアレンジされてただけだって考えると、めちゃくちゃスッキリするんですよ。いいわけじみた苦しい説明をする必要も全く無くなる。ケルト美術がヴァイキング様式に影響を与えたのかその逆なのか、なんて議論も不要になる。なんだ! 今までのケルト本でなんか微妙に腑に落ちなかったところがほぼ解決しちゃうじゃないか!!

あまりにもスッキリしすぎる説明は逆に怪しくなりますが、美術の場合は見た目が似すぎてるのに他人のように振舞ってるのが不自然だったと思う。(ていうかケルト本は美術の独自性を強調しようとして言い訳っぽい書き方になってるような…)

もう、これでよくないですかね? だめなの?


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北欧クラスタは多分これでもオッケーだと思うんですよ。昔から「ゴネストロップの大釜ってデンマークじゃん…」「ケルトとゲルマン分ける意味ないよね」とかいう意見があったから(笑)
ケルトクラスタからはめっちゃ怒られそうな気がするけど。

・ケルト人は島に移住してませんでした、アイルランドに至ってはケルト文化が到来した証拠もほぼ無く、島の美術様式を無条件に「ケルト人の文化」とは主張出来なくなりました

・最初はケルトの影響を受けていたのだとしても、ほぼ空白の期間が500年ほど挟まっているので「中世ケルト美術」の頃には別モノになってます。

・ヴァイキングたちはケルト人の隣人だった期間が長いため、むしろそっちのほうが"ケルト美術"の正当な後継者の可能性も…

美術様式に関しては、言語は無関係となります。「ケルト語圏だから」でケルト美術と名乗るのは無理すぎる。(そんなのが通るなら、ギリシャ語圏の美術は全部ギリシャになっちゃう。例えばアナトリアのギリシャ語イスラム教徒の美術とか…。アラビア語圏だからって中央アジアもイスラム美術にしちゃうとか。普通は言語だけじゃなく中身を見る)

看板を外さなければ先に進めないのなら、そうするしかない。
そろそろパラダイムシフトの季節だと思うんですよ。


*************
おまけ つくっておきますた!

アイルランドの青銅器時代〜鉄器時代の年表
http://55096962.at.webry.info/201706/article_17.html

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