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zoom RSS トルコ民族の起源と中央アジアのイスラム化/知識の中のミッシング・リンク

<<   作成日時 : 2014/04/12 00:10   >>

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資料になりそうだなーと古本屋のワゴンから掘り出してきたのがこちら。ちょっと古めの本で、内容の細かいところは自分になじみのないジャンルということもあり正誤の判断が付かないけれど、とりあえず歴史ディティールを勉強する分には丁度よかった。

古代遊牧帝国 (中公新書 437)
中央公論新社
護 雅夫

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本の中心になっているのは突厥(とっくつ)、かつて中央アジアの覇者として大帝国を築いた遊牧民族で、タイトル「古代遊牧帝国」は突厥の王国を指している。

この本の内容は、大きく分けると2つになると思う。
前半、トルコ民族の起源。
後半、突厥の帝国から続く中央アジアの趨勢。

前半部分では、トルコ民族の起源、つまりアジア系の騎馬遊牧民族テュルクについて語る。突厥=テュルクというのが今のところの定説だから、突厥の歴史をトルコの起源として語るのは分かる。で面白いのは、テュルクは突厥として知られる以前はどのような名前で、どこに住んでいたのかという話に及ぶあたり。

ここで思い出すのが、トルコに行ったときに見つけてしまった衝撃の「トルコ人の祖先たち」コーナーなのある。

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衝撃のトルコ軍事博物館◆トルコに行ったら、アッティラがトルコ人の祖先扱いになっていた。
http://55096962.at.webry.info/201208/article_11.html

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この本では、突厥が登場する紀元5世紀以前についても推測し、突厥の前身となる民族は、以前は匈奴の配下にいたとしている。また、同じものではないとしているが、エフタルなどにも言及している。

この人がイスタンブールで講演して喝采を得たというのは…そのへんなんじゃないのかな…
トルコ人が望んでいた「偉大な歴史」を彼らに与えたからじゃないのかな…
私がイスタンブールで見た、色んな民族の全部「祖先」にして直列に並べちゃってる衝撃の「祖先たちの系譜」コーナーの成立に日本人学者も絡んでたりするんじゃないかとか、ちょっと微妙な気分になった。

と同時に、突厥を含むテュルクの歴史が、ほぼ全て「中国の歴史書に寄っている」という事実も再確認。仲悪い国の歴史に頼らないと自分たちの民族の過去を掘り起こせないのは、そりゃ、もにゅもにゅするよなあ…。
さらに匈奴の帝国が唐に滅ぼされたこと、テュルクの一派とも考えられるモンゴルやウイグルに対する現在の中国からの圧力も考え合わせると、トルコと中国が仲悪いのは、単に近年の話ではなく、ある意味でキリスト教とイスラームの如く「古えからの因縁」とでも言うべきものなのか。

とかく、突厥以前の歴史部分は推測が多く、また自分もあまり細かい歴史については記憶する気もないので、このあたりは概要としてさらりと流す。


続く突厥の歴史部分で、ついこの間の西アジア発掘調査報告会の「キルギス共和国チュー河流域の考古調査」で触れられていたアク・ベシムの話が出てきた。

玄奘三蔵がインドに行く途中で立ち寄った町、ということだったが、その玄奘の書いた「大唐西域記」の該当部分も引用されていた。アク・ベシムは「素葉城」「砕葉城」(スィーアーブ)と書かれているらしい。玄奘の立ち寄った7世紀後半、アク・ベシムは「各国の商人が集う町」で、そのときは「みな突厥に隷属していた」とある。さらにその時代のアク・ベシムには、キリスト教の教会、ゾロアスター教の寺院、仏教寺院が立ち並んでいたという。ゾロアスター教の寺院があったのは、この町に住んだのがイラン系ソグド人の商人だったからで、町の歴史の後半は大半がソグド人であったという。

西アジア発掘調査報告会で発表されていたのは10世紀後半、アク・ベシムが放棄される直前の住居跡で、そのときにはアク・ベシムはイスラーム化していた証拠があるというから、玄奘が訪れたときから放棄の直前までの間にイスラーム化が進んだことになる。発表会の資料では、そのイスラームへの転化は「10世紀中葉、カラ・ハン朝のサトク・ボグラ・ハーンがイスラームに改宗したことを契機に、その支配領域であった中央アジア東部にイスラームが一斉に浸透した」とある。

アク・ベシムは、カラ・ハン朝によってイスラームが広まる時代になると衰退し、商業の中心地の役割を、近くに出来た新しい町ブラナに譲って放棄される。これは、様々な宗教の集まる混成都市が捨てられて、イスラーム一択の都市が中心地として選ばれたとも取れるのだろう。


調査報告会で聞いただけでは何のこっちゃ分からなかったアク・ベシム遺跡だが、前後の歴史と地理関係がわかってくると俄然腑に落ちる。ここは「西アジア」と「東アジア」のちょうど中間点なのだ。

ヘロドトスが伝え、その後ギリシャが忘れ去ってしまった「東方へのルート」がここにあった。突厥とイスラム勢がぶつかったのもこのへんだった。中国の製紙法は、タラス川の決戦で負けて捕らえられた中国人捕虜がアラブ世界に伝えた。

遊牧民たちは東から西へシルクロードを辿って勢力を拡大し、ソグト人をはじめとする西の商人たちは逆に西から東へと活動範囲を広げていった。

たとえ今は見る影もない廃墟だとしても、そこではかつて歴史を動かした様々なドラマがあったということ。なるほど、確かにこれは面白い遺跡だ。

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で、色々調べているうちにふと気がついてしまった。
製紙法が西に伝わった経緯はわかった。でも、アジアの騎馬遊牧民が製鉄法を西から学んだのは、一体いつなんだ…?
突厥の祖先は製鉄技術に優れていた、というような話がかかれていたので気になった。確かに、蹄鉄がないと馬で荒地を長距離走るのは困難だ。製鉄技術と騎馬民族はきっても切れない関係にある。でも、時代もルートも私は知らない。

製鉄技術は、今はトルコ領内になっているアナトリア、かつてのヒッタイト帝国で先ヒッタイト人が始めたものとされている。その技術はヒッタイト帝国の崩壊とともに四散し、近隣に広まっていく。おそらくシルクロードを西から東へ辿る経路で誰かが伝えたものなのだろうが、今までそのへん全然気にしたことがなくて、「自分がそれを知らない」ということについさっき気づいたような状態だ。まさかの知識の中のミッシング・リンク。

ひとつ調べたらまたひとつ宿題が出てきたっていうもうね。

楽しいからいいんですけどね。

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