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zoom RSS ギリシャの貧困/発展の起爆剤と限界に達した理由をエジプト視点で書いてみる

<<   作成日時 : 2014/02/17 00:10   >>

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昔、ギリシャがデフォルトとした時に、こんなものを書いた。

「偉大なる」ギリシャの没落? 過去のギリシャさんは過大評価されすぎだと思う
http://55096962.at.webry.info/201207/article_28.html


なにしろ私がエジプト視点なので、ヘロドトスも書いているとおり「エジプトの歴史の前にギリシャはヒヨッコ」なんである。そして私の中の歴史のギリシャは、海の民と同じように生きていける土地を探して海辺をさすらっていた、海賊紛いの難民の一種――最初にナイルデルタに現れたギリシャ人から始まっている。

あのとき上手く書けなかった話を、「ギリシャの宿命は貧困であった」という言葉からはじめてみたい。


いまさら言うまでもなく私はエジプトスキーなエジプトマニアなので、歴史を見る時はどうしてもエジプト側からの視点が最初になる。エジプトの側から見たギリシャ、エジプト史に登場するギリシャ人とは、まず「傭兵」である。最初にギリシャと結んだ王は、紀元前7世紀末――第二十六王朝「プサンメティコス」だ。
http://www.moonover.jp/bekkan/chorono/farao_26th_02.htm

この王の時代にギリシャ人の定住地としてナウクラティスが開拓され、海上貿易を行う商人としてのギリシャ人や、ギリシャ人の持ち込んだ貨幣という概念がエジプトに流入するようになる。しかし、これ以降もサイス朝を通してのエジプトでのギリシャ人は「傭兵」で在り続けた。


ギリシャ人部隊の働きぶりは結果はどうあれ、満足のいくものであり、精鋭部隊としての評価はエジプトにおいて高まっていった。とは言え、ギリシア人が「傭兵」である限り、エジプト人との関係は決して対等ではない。雇い命じる側と雇われ仕える側との主従関係ははっきりしている。両者の間には「報酬」が介在し、富を誇るエジプトの王の下、ギリシアの乏しい民たちは戦さの場に自らの命を曝し、その報酬を勝ち取る他なかった。

――ギリシア文明とはなにか/講談社選書メチエ


そもそもギリシャ人がイオニアと呼ばれる現在のアナトリア西岸付近に都市を築くようになったのは、バルカン半島に遅れて南下してきた後進のギリシャ人に押し出されたからだった、と言われている。そのバルカン半島も決して豊かな土地ではなかったのはよく言われるとおりで、エジプトのように肥沃な土地ではない。オリーブは育つが、小麦などは育ちにくい。

もしもギリシャ人たちの入植地が全人口の腹を楽に満たせるほど豊かだったなら、傭兵などという身一つの形で危険に身を晒す職業につかなくても良かったし、新たな入植地を探して多くの開拓民を送り出し続ける必要もなかった。ギリシャ人たちが都市(ポリス)を次々と打ち立てていった紀元前6世紀頃、ギリシャ人は貧困とともにあった。そしてそれが、彼らの歴史の始まりであり、成長の糧だったと言ってもいいと思う。


ギリシャ文明について語るとき、オリエント側の視点からは「周辺の文明」という言い方をすることがある。
オリエントには紀元前五千年くらいから既に「文明」が存在した。メソポタミア周辺と、ナイル周辺の二つの大河流域を中心とする、メソポタミア文明、エジプト文明である。その二つを中心とした場合、ギリシャ人の入植したイオニア(アナトリア西岸)は「辺境」であり、先行する二大文明の影響を受けた「外周部分の文明」である、という意味だ。(アテネなどのある現在のギリシャ共和国近辺は周辺としてすら扱われない。)

ギリシャといえばギリシャ彫刻だが、実際に、初期のギリシャ彫刻はエジプトの影響を受けた様式としてイオニアで作られている。クーロス像というやつだ。また、アルファベットも、エジプトの象形文字からシリアに住むフェニキア人が作り出した初期のアルファベットがイオニアで採用され、現在に繋がっている。

だからエジプト側から見たギリシャは、鍛えぬいた自らの肉体を商材とし、先行する文明国に傭兵として雇われて稼ぎながら先行の文化を貪欲に吸収していく、よちよち歩きの後輩なのである。
それは、ギリシャ文明が揺籃期を迎える頃になっても変わっていなかった。土地の肥沃さは変えることが出来ず、財力ではエジプト側が常に上だった。また既に何千年と築いてきた伝統と歴史の前に、たかだか数百年の歴史は太刀打ちのしようがない。ギリシャにとって常にエジプトは「憧れの的だった」とよく言われるのは、そういうわけだ。


その貧困を宿命としていたギリシャが統一され、かつて見上げていたエジプトをはじめとして、メソポタミアの後継でもあるペルシアまで攻め込んだのが紀元前4世紀。大事件である。貧しい傭兵の国が、財力でも文化でも決して敵うべくもない相手に挑戦したのだから。

しかしその後、ギリシャ人は、自らの成長の起爆剤であった「貧困」や「渇望」を永久に失ってしまった。


アレクサンドロスの死後、制服した土地は後継者たちに分割相続される。メソポタミアもエジプトも、ギリシャ系の王たちに治められるようになる。しかしその土地の伝統文化は異民族のものであり、その土地は自らが切り拓いたものではなく、支配者層の数は少なかった。豊かさだけを手に入れたギリシャ人は、かつて死に物狂いでペルシアを退けた時と同じように戦うことが出来ず、ローマの傘下に下る。

思うに、「貧困」から脱却した時、ギリシャ文明は限界に達したのではないか。
先行する二大文明への憧れと学びから始まった発展が、それらの文明揺籃の地の”支配”という形に落ち着いたとき、目的を見失って成長を止めたようにも見えなくもない。


だからギリシャは貧しいのが正解だ、と言いたいわけではない。
ギリシャは昔から豊かで偉大な文明だった、というイメージは誤りだというだけだ。

むしろ国が破産しかかった経験のある現在なら、かつて貧困という宿命から逃れるために爆発させたそのエネルギーを再び取り戻せるんじゃないのかい? ――と、そういう話がしたい。傭兵として再び世界に出るという道もある。今は戦闘をしなくても国外で出稼ぎ可能、いい時代になったものだ。


ただ、かつてマケドニアだった場所は今べつの国だしな…。
イオニアもトルコだしな…。
そのトルコさんは、革命後の近代の経済が比較的好調なんだよな…。

とりあえずギリシャさんはまず、隣のトルコさんと仲直りしようぜ。あと、ドイツさんに戦後補償を要求するとかタカリみたいなことやってるうちは、立ち直るのは無理だと思うんだ。(笑

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