フィラエのイシス神殿、最後まで守ってたのはどうやらヌビア人だったらしい

フィラエのイシス神殿というのは、エジプトにおけるナイル川の最上流、アスワンにある神殿のこと。
川の中にある島に建てられている神殿で、イシスがセトの追撃を逃れながら息子ホルスを育てていたナイルの中洲の島を模している。
こういう感じの場所である。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Philae

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https://www.egyptprivatetourguide.com/egyptian-facts/philae-island-visit-isis-temple-philae/

アスワン・ハイ・ダムが出来た時に完全に水没してしまうというので、もとの場所から近くの島の上に移設されたのが今の姿だが、実はこの神殿、エジプト国内で「最後にヒエログリフが書かれた」場所である。

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参考
古代エジプトの公用語とヒエログリフの絶滅に至る経緯めも
https://55096962.at.webry.info/200910/article_36.html

既に公用語ではなくなっていた古代エジプト語だが、ヒエログリフは紀元後394年の日付で書かれた、フィラエのイシス神殿のものを最後に使われなくなってしまう。キリスト教やローマの文化がナイル下流の海沿いから伝わってきているので、最上流の奥地に最後まで古代の文化が残ったというのは不思議ではない話だと思っていたのだが、調べていくと、どうやら古代エジプト文化の最後の守り手は、ヌビア人だったらしいのだ。

エジプト人が次々とキリスト教(コプト教)に改宗していく中、昔ながらのイシス信仰を守っていた神官はヌビア人。
これは第25王朝、ヌビア人ファラオがエジプトを支配した時代を想起するとわかりやすいと思う。エジプト人自身が自らの伝統を失いつつあった時代、ナイル川上流の人々はそれを継承し続けていた。そして神殿も自分たちで守っていた。
プトレマイオス朝、ローマ支配時代と続いていく中で、神殿への貢献はヌビア人の王たちからもたらされていたのである。

When Isis Was Queen
https://www.archaeology.org/issues/445-2111/features/10053-egypt-philae-temples

最後のデモティック(民衆文字)碑文は452年、ギリシャ語での記録は456年。
その後、ビザンツ皇帝ユスティニアヌが神殿の閉鎖を命じてイシス神殿から神官が追放されてしまうのだが、ローマがキリスト教を国教化してからもかなりの年数を生きのびていたことがわかる。
そして多分、息子ホルスを守るイシスの姿は、キリスト教の聖母マリアとキリストの姿に化身して、なおもイメージだけは生き残ることになる。

エジプトより上流地域のキリスト教圏にある「聖母マリア」伝説、もしかして一部はイシスかもしれない。
https://55096962.at.webry.info/202109/article_16.html

現代においてもそうだが、国境、というのは、それほど明確なものではない。
というより、そもそもの「ヌビア地域」はエジプト南部とスーダン北部を包括する概念だ。「エジプト人」と「ヌビア人」は分けるべきなのかどうか。エジプトの中央政府が重視しなくなったあともフィラエ島のイシス神殿に奉納を続けていたヌビア人の王国は確かに現在のスーダンだが、神殿にいたヌビア人というのは、たぶん地元に昔から暮らしているご近所の人だったはずなのだ。

神殿自体は「古代エジプトの遺跡」と言われるが、その遺跡を作った/維持していたのは、広い意味での「古代エジプト人」であり、そこにはヌビア人も含まれるのではないかと思う。きっちり線を引いてしまって分けて考える意味がない。そもそも遺跡の位置自体、古代の国境線のボーダー上なんだし。

また、最近の研究では、スーダン北部のキリスト教徒はナイル流域の人々とほぼ同一という結果が出ている。

アラブ人移民が来る前のヌビア地域はどんな場所だった? 古代の人骨から見る世界の繋がり
https://55096962.at.webry.info/202112/article_19.html

エジプト南部からスーダン北部にかけての地域は、現代の国境で分けて考えるより、一つの地域としてまとめて考えたほうが正しいのだと思われる。