伝統ってなんだっけ。「先住民の文化を守れ!」が人間動物園になっている可能性について

10年近く前、一人でイースター島に行った。

何で? と聞かれてもよく分からないが、なんか取り敢えず一度はいっとかなあかんかな的なノリであった。世界の果てとか端っことか行くのは好きなのだ。ちょうど1ドルが90円とかそんな時代だったし、東日本大震災の影響で計画停電のため一週間の強制夏休みを食らった年だった。

島には意外なほどたくさん人がいた。イースター島の住民は、かつてヨーロッパ船の奴隷狩りで全滅しかかったことがある。そこから急激な増加をしたわけではなくて、チリ本土からの移住者もけっこういるという話だった。その意味で、純粋なイースター島住民は既に存在しない。どこかで繋がっている人はいるかもしれないけれど。

島では夜にダンスの催しがあるという。
出掛けてみると、大通りに面した小屋でカリ・カリというダンスチームによる催しが開催されていた。カウンターバーみたいなのがあり、お酒と一緒にダンスを楽しむこともできるという。なんだかダイナミックな踊りを楽しんで宿に戻った。

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このダンスは、ポリネシアの踊りを参考に「再現」したものだと、その時に聞いた。
イースター島住民はポリネシアから移住してきたという話を知っていたので、なるほど、まぁ、そんなものかと特に深くも考えていなかった。

 …しかし、あとになってよくよく考えてみたら、「再現」ってなんだ。

100人以下まで人口が落ち込み、島ではほとんどの文化が途絶えた。モアイ像づくりはもちろん、ロンゴロンゴ文字のような特定の人しか読めない伝統は途切れてしまった。歌や踊りはそこまで限られた人だけの伝承ではないから、一部が残っていた可能性はあるだろう。しかし、…今見ているものは、おそらく、かつての島の伝統とは違うものだろう。



自分が何を見たのか分からなくなってしまった何年か後に行ったのが、ブラジルのアマゾン地域だった。

アマゾンでも、先住民による踊りが披露されている。
こちらはどうも昔からの伝統に従って(と言っても多少は入植者の影響を受けていそうだが)伝承されたものを踊っているらしい。狩りが上手くいったときのお祝いの踊りなんかも見せてもらった。

しかしそこでの疑問は、踊りそのものではなく衣装だった。
「いかにも、先住民!」という衣装で踊っているのだが、踊り子さんたちは別に普段そんな格好してないのである。ていうか半裸で踊ってるけど普段は普通に洋服着てスマホいじってる…。先住民のイメージに合わせて、踊りの時だけそれっぽく装っているだけなのだ。

踊りの時だけ昔の衣装を着る、というのは、日本の祭りでもやっている。しかし、その衣装は時代に合わせて、今風にアレンジされている。先住民の踊りだって、別に、あんな「いかにも」過ぎる半裸じゃなくてもいいんじゃないか、と、これまた、何か違和感のようなものを感じてしまった。



これらの体験から学んだことは、「先住民の文化を見ようとするとき、見る側は、無意識に『劣った』『野蛮な』『純粋な』人々を求めている」ということである。現在を生きる人間ではなく、どこかロマンチックな幻想を勝手に重ねてしまう。そして「見せる側は、その要求に応じて演技をする」。

イースター島に住んでいる人々も、アマゾン奥地の人々も、先住民といっても別に特別なことは何もない。前者はチリ国民だし、後者はブラジル国民である。当然ながら、それぞれの国の国民が受けるべきサービスを受け、現代に生きている。洋服着てスマホでゲームしてテレビ見てるのである。インターネットだってある。イースター島のインターネット回線は衛星回線でどちゃくそ遅かったが、アマゾンのWi-Fiはそこそこの速度で、Kindleで電子書籍の通販が出来るくらいだった。

なのに彼らを先住民という枠組みに押し込めて、先住民「らしさ」を求めるというのは、つまり、自分たちと同じ人間として見られていないということになるのではないだろうか。そういうのこそ、紛れもなく「差別意識」というやつである…。
「らしさ」を求めて、「らしい」演技をする人々を見て喜ぶのは、人間動物園の発想だろう。人を見世物にして楽しんでいる、百年前のヨーロッパのお貴族様の悪趣味が現代に生き残ったみたいなものなのだ。



これは、単に観光客向けのショーの問題ではない。

「先住民の文化を守れ!」という活動自体が、希少な動物を保護区の中に閉じ込めて、そのまま生かしておくような、一人よがりなものになってしまう可能性がある。やってる本人たちは否定するかもしれないが、とんでもなく失礼で人を人と思っていない酷い結果になりかねない。文化を守れ、と外部から押し付けることは「お前たちは未開のままでいろ」という宣言にも等しいからだ。それを見て、多様性を守れたと自己満足する醜悪な見物人にはなりたいだろうか。

既にスマホもインターネットも知っている人々に、お前たちの伝統はカネになるぞと言って半裸で踊らせて楽しむのは、ちょっとどうかと思うのだ。「伝統」というのは、そういうものじゃないと思うんだ…。


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行ったことは無いが、カラハリ砂漠に住む狩猟民ブッシュマンについての話を読んだことがある。

既に伝統的な狩りだけで暮らしている人はおらず、洋服を着て、多くが定住もしているのに、政府がブッシュマンについての紹介をする時に「ブッシュマンらしく」見せるために、わざわざ半裸で弓矢を持ってもらって撮影していたという。文化や伝統を守ることは素晴らしい、と言いながら、先住民をいつまでも未開に留めようとするのはちょっと違う。そういう見世物的な発想での多様性の賞賛こそ唾棄すべきものだ。

なんで他人から「らしさ」を押し付けられねばならないのか。
変わらないことを求められねばならないのか。
別にいいじゃん、狩り止めたって。先住民だっておっぱい隠したいし、クーラーかかった部屋で暮らしたい人はいるでしょ。



先住民に特定の居住区をあてがって生活手当を出す、なんていう取り組みも、はっきり言えば「ユダヤ人はゲットーに籠ってろ」という発想と同じだし、特定の権利を先住民にだけ与えるというのも、それ以外の何かの権利を奪おうとしていることの裏返しだ。
いいとこしてるつもりでいるけど、冷静に考えるとそれこそ忌むべきことなんじゃない? という事例は、世界中に沢山ある。

そもそも目指すところは何なのか。「多様性」という言葉で誤魔化して、単に「この人はこれ、この人はこうであるべき」という役割を押し付けているだけなのなら、そんなものは必要ないのではないかと思うのだ。