人種差別的な人は排除せよ! →初期エジプト学者も軒並みアウトになる件

人種差別を理由に各地の像が引き倒されたり落書きされたりされている昨今なので、ちょっと思ったことを書いておこうと思う。

当たり前だが、時代によって「何か差別的か」という常識は異なる。 正義や社会的な公正さについても、その時代ごとの基準なり通念なりが存在する。現代に生きる我々と、少し前に生きる人の考え方は異なる。異なって当然と言える。たった50年前の人とでさえ、価値観は完全には共有されがたい。いわんや数百年前の人をや、である。

極端な例を挙げれば、かつては異教徒は強制的にでも改宗して、人として正しい道に導いて「あげる」ことが正義だった時代がある。それは社会の安定を保つための手段の一つであり、実際に、価値観の均一な集団のほうが強い場面もあることは、歴史が証明している。

身体や精神に欠損ないし不備と見なされる部分がある場合には、その業を子孫に背負わせないために断種して「あげる」ことが慈悲だった時代がある。これは障碍者を養う余裕のない社会において、必ず遺伝する遺伝病を持つ人が対象だった場合には、必ずしも非人道的ではなかったかもしれない。



最初に了解しておかなければならないのは、それぞれの時代において、人々は常に最善と思われる選択をして来たことである。異なる時代に生きる者はいわば、当時の人々からすれば無関係の外野に過ぎない。問題となるのは「なぜ」その選択をしたのか、「なにが」そうさせたのかであり、行動そのものの良し悪しではない。


 その時代ごとの常識があり、正義がある。
 その時代に生きた人は、その時代の価値観の中に生きていた。


そしてこれら時代による価値観の違いもまた、人間の「多様性」の一部である。
同じ時代の異なる地域ではなく、異なる時代の同じ地域の、いわば垂直の多様性だ。しかしこれは多様性の受容の中から抜け落ちやすい視点となる。この視点を失うと、人は恐るべき狂信者として意に沿わぬものを打ち倒すしかないのである。


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少し前の時代のエジプト学者の話をしたい。

100年くらい前の、エジプト学のパイオニアたちは、現代基準で見ると軒並み、人種差別主義者である。当時のヨーロッパと、フィールドとなるアフリカとの経済格差、文化の差異からすると、野蛮で未熟な世界と捉えるしかなかったのだろう。つい最近まで残っていた「第三世界」という言い方も、その名残の雰囲気を持っていた。

だから彼らの中には、「いまこんなに劣っている人たちに、目の前にあるこんな立派な遺跡は作れるはずがない」と考える者も少なからず存在した。いや、むしろ主流的な考え方であった。聖書物語の伝説の源であり、最古の文明とされたメソポタミアを持ち上げるあまり、「アイデアには翼がある」と考え、周辺文明は最古の文明からのアイデアを受け取って発展したと考えていた時代もある。かなり中立なほうだと思われる知の巨人、アーノルド・J・トィンビーのような歴史家でさえ、現代基準で言えば差別的な発言を著書に盛り込んでしまっている。

そんな中、初期のエジプト学者たちの多くは、エジプト文明は外来の人々によって築かれたとか、今住んでいる人々とは無関係な古代人だったと推測し、ミイラの身体的特徴が「白人に近い」と評価し、脳の大きさが「現地の黒人より大きい」と記録した。
そうすると、彼らは軒並み「アウト」なのである。

しかし彼らの生きていた時代の「その時代の見方」を理解していなければ、「なぜその学者がそのような説をたてたのか」という背景が見えない。現代基準では差別的な見方だったとしても、それを単純な善悪で評価してはいけない。人類の歴史の中の多様性の一つだと理解しなければ前に進めない。特に考古学は、常に先人たちの過ちを修正しながら前に進んできた学問だったはずだ。

そしてまた、差別的な見方を理由に、過去のパイオニアたちの記憶や業績が抹消されていくのなら、それがどのように訂正されてきたか、という歴史すら失われてしまうことを意味するのではないか。先人たちの歩んだ道を否定し、敬意を払うことを忘れては、歴史を語ることなど出来ない。
もしも人種差別的と断罪された最初の人々が歴史から抹消されるか矮小化され、その仕事が、学問の基礎を作った考え方が単なる「差別的な見方」として捨て去られるのなら、それはとても恐ろしいと思う。



既にセオドア・ルーズベルトの像は攻撃の対象となってしまった。
次に攻撃されるのは誰だろうか? それはもしかたら、私の良く知っているエジプトや、古代オリエント世界のパイオニアの一人であるかもしれない。どうしてこの活動を賞賛できるだろう? 現代基準で非人道的なことをした人物の像は全て撤去しろというのなら、この世にはたった一人も残らないだろう。ある人を評価するのに、ごく一部を切り取って好ましいか好ましくないかを決めるのがどれほど愚かなことか。ガンジー像ですらアフリカでは攻撃の対象だ。

少なくとも、像の首を刎ねてから「こいつは差別主義者だったからだ」と宣言するのは、犯罪者を裁判にかけずに処刑したあと「こいつは殺人鬼だったからだ」と断罪するのと同じく無法の極みである。やる前に話し合い検討するのが文明というものだろう。



このヒステリー状態はアメリカから始まった。おそらく大統領選挙に絡むデマゴーグの一部なのだろうが、選挙戦が終わったあとに鎮火するかどうかは分からない。私にはこの運動は、その時代ごとの正義、その時代ごとの常識、という多様性を完全に否定する不寛容にしか見えない。もちろん、この運動や考え方自体も、今のこの時代における考え方の一つだとは思うが… 正しい/間違っている という判断は抜きにしても、到底受け入れがたい。



「500年前の侵略行為」等、過去はいつまで引きずられなくてはならないのか。
https://55096962.at.webry.info/201910/article_15.html

↑でも書いたが、「起きた事実」と「それに対する感情や解釈」は別のものとして存在することが出来る。
そもそもの歴史とは客観的な事実のみであり、それに対する評価や解釈は別に存在する。両方ごっちゃにして歴史自体を好ましくないものとして抹消しようとする行為は、この時に危惧したとおり、「過去も恨みも忘れられない以上、人類は歴史など持たないほうがいい」という方向性なのだろう。

その先に待つものは…。うん…。
もう一回、暗黒時代とルネッサンスやり直すんですかね…。