「500年前の侵略行為」等、過去はいつまで引きずられなくてはならないのか。

およそ三世代ほど前に起きた事件に関して、お隣の国が日本に対して謝罪や賠償を要求するというニュースが流れるのを目にすることがあるが、世の中そんなレベルじゃない、何百年も昔の話を蒸し返して謝罪などを要求する事例が結構ある。それも、フランスとイギリスの間で交わされる「100年戦争ネタ」のようなちょっとしたブラックジョークのレベルではなく、ガチなやつとして。

最近そうした「歴史」に関する謝罪要求を頻繁に出している国の一つが、メキシコである。

メキシコ大統領、スペインに植民地支配の「暴虐」への謝罪を要求
https://www.afpbb.com/articles/-/3217503

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アステカを侵略したスペインを批判している。確かにスペインさんは植民地で色々やりすぎた。とはいえ500年前の話で謝罪要求というのは現実的ではない。国内向けのパフォーマンスにしても、いささか滑稽だ。


次に、少し毛色が違うが、オーストラリアで起きている国の始まりの歴史を侵略の始まりでもあると捉えるデモの事例。
これは謝罪要求というわけではなく、英入植者団の到着日は実際に建国記念日のような意味を持つものだとしても、そりゃ元からオーストラリアに住んでいた人たちにとっては面白くないだろうなと思う。ただ、これも英国から人が来たのは250年も前である。250年そこに住んでいた人たちを「よそ者」扱いするのは果たして適切なのだろうか。

オーストラリア建国記念日は「侵略の日」、抗議デモに数千人
https://www.afpbb.com/articles/-/3208290

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同様に、ニュージーランドでもこのような運動が起きており、ヨーロッパ人の到来は先住民にとっての災いだったと批判する声がある。

クック船長の航海記念イベント、先住民団体が入港禁止 NZ
https://www.cnn.co.jp/travel/35142797.html

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以上、3つの例を挙げたが、どれも「まぁ気持ちは判るんだけど…それ、だいぶ昔のことだよね?」とツッコみたくなる事例である。
あまりにも昔の話すぎるのもあるが、どの事例も、自分たちに都合のよい事実(自分たちが一方的な被害者となれる事実)のみを取り上げていることが微妙だと思う。

たとえばメキシコの例だが、当時のアステカはその地域における他の民族や国を武力で支配していたはずで、だからこそ余所者のスペインに協力する部族や人なども現れて、アステカは倒れてしまったともいえる。また、現在ではメキシコに住む多くの人が、スペイン人との混血だ。彼らはもしかしたら、裕福な農場主が現地の女性をレイプした結果だ! と主張するかもしれないが、とはいえ現代のメキシコ人の多くが混血という事実は変わらない。もしかしたら先祖は侵略者側だったかもしれないのに被害者のふりをして声を上げているという構図は微妙である。

オーストラリアの例にしてもオーストラリアが現在、世界の先進国の仲間入りをしているのは何故なのか、一体誰の功績なのか、という話があるし、ニュージーランドについても、クックの船団と先住民が起こしたトラブルの例の中に先住民の「盗み癖」、つまり船団の持ち物を勝手に盗んだのがキッカケの出来事があるのを言わなくてもいいのだろうか。島の風習として、皆のものは俺のもの、という道徳概念だったにしても、外から来た人々にとってそれは許されることではない。異なる文化が接触した際に起きるすれ違いの一環だ。それこそ、現代の概念でおしはかってはいけないのではないか。

個々のケースで考慮すべき点はある。ただ、それらに細かくツッコむ気はない。
ここで気にしたいのは、「歴史は、一体いつまで引きずられなくてはならないのか」ということだ。

負い目がなく、過去に他の集団と闘争を行ったことのない人間集団など地上に存在しないだろう。どんな民族も国も、遡れば、どこかで誰かと戦っている。小さな島の部族にさえ、隣の島の部族と戦ったとか、島内で権力争いをしたとかいう過去がある。どこまでもどこまでも遡って他人を糾弾し続けるのなら、異なる人間集団の間に、対等な関係も平和も生まれないことになる。

歴史に風化も忘却も許しも存在しえないのなら、人類は「歴史」など持たないほうがいい。

そうではなくて、歴史はどこかの段階で、具体的には当事者たちがみんな居なくなった時点で、いったんリセットされるべきだと思うのだ。
「起きた事実」と「それに対する感情や解釈」は別のものとして存在することが出来る。歴史には、それにまつわる感情をどこかで忘却するプロセスが必要なのだと思う。でなければ、人類は過去をネタに再現なく争いつづけることになる。

当事者たちがいなくなった時点でリセットしろというのは、当事者でない(=体験していない)人の感情は、全て「作られたもの」でしかないからだ。
100年前に起きた虐殺を恨んでいる人がいたとして、その人は100年前には生きていないか、物心ついていない。その恨みは、自分の記憶や感情ではなく、何か外から与えられたもので生み出されているのは間違いない。ならば一体誰が、あるいは何が、その恨みの感情を覚えさせたのか? 起きた出来事という事実の中に感情は存在しない。それに対し何をどう思うかは解釈次第なのである。誰かがある一定の方向に解釈し、その解釈を受けいれて生まれた感情にすぎない。他人に植え付けられた感情を振りかざして人生を費やすのは虚しい。

そもそも歴史それ自体は、客観的な事実のみだ。怒りも恨みも悲しみも、解釈によって生まれる。
その解釈によって争いを無限に再生産し続けることは、無意味に思えてならない。