聖者と暗殺の記憶とともに ― 「聖キリルとメトディオス教会」

「聖キリルとメトディオス教会」―または「聖キュリロスとメトディオス教会」と呼ばれている場所は、プラハの中心部に近いカレル公園のすぐ側にひっそりと建っている。

通りの向かい側に建つ教会のほうが大きくて立派なので、こちらはあまり目立たない。訪れる観光客もまばらだ。しかしここは、一度訪れると強烈な印象を残す、ナチス・ドイツ支配下のチェコで自由をかけて戦った人々の壮絶な戦いの記憶が残されている場所なのである。


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今回ここに行ってみようと思ったのは、正直に言えばナチスあんまり関係なかった。名前に惹かれただけというアレな理由だ。


のちに列聖されるキュリロス(キリル)とメトディオスの兄弟は、9世紀の半ばに、チェコの前身のひとつとなった国家・モラヴィア王国に願われて、ビザンツ帝国からの指名でキリスト教の布教にやってきた人物だ。弟のキリル(本名はコンスタンティノス。修道名がキリル)のほうは「キリル文字」の名前の由来にもなっている。ただし、キュリロスが実際に開発したのはキリル文字の元になるグラゴール文字のほうであり、のちにそれを簡略化して現在使われているキリル文字の形にしたのは後世の人らしい。

当時話し言葉しかなく、ラテン語やギリシャ語を表すのに使われていたアルファベットでは表現しきれない発音もあって使いにくかったスラヴ語に対し、「じゃあスラヴ語を記録するのに使える文字、新しく考案するわ。」と言えたキュリロスはなかなかにすごい人物なのだ。

もっとも、モラヴィアへの赴任が決まってからいきなりそんなことを思いついてとっさに文字体系を作りあげるのは難しいので、ある程度、試験的な運用がなされていた可能性はある。9世紀ごろのビザンツ、というより兄弟の出身地テッサロニキ周辺にスラヴ語系の民族も多く住んでおり、キュリロスたち兄弟が指名された理由のひとつがモラヴィアで使われているスラヴ語に通じていることだったらしいから、ビザンツのスラブ系の人々は既に自分たちの言葉を表記するための文字の構想を持っていたのかもしれない。

ともあれ兄弟のモラヴィアでの布教は大成功。
新たに考案された文字によって聖書などのスラヴ語翻訳がなされ、スラヴ語での典礼も始まる。モラヴィアはキリスト教国として歩み始めた。

キュリロスとメトディオスがチェコの第一の守護聖人とされているのはそういうわけであり、彼らの名を冠した教会が、18世紀という遅い時期ではあるものの首都プラハの中心部に建てられたというのは不思議なことではない。





ちなみに、二人の出身地はビザンツ(=東方正教系)なのにカトリックの聖人扱いされているのにはツッコんではいけない。
いろいろと大人の事情があるのだ。


(西の教会の長・ローマ教皇は、モラヴィアと勢力争いをしていた東フランクに睨まれたくないので当初は表立ってモラヴィアの布教活動を後押し出来なかったらしい。のちにメトディオスに力を貸しているし、東と西の決定的な分裂はまだなので、まぁ無関係ではない…とも言えるが…ゴニョゴニョ)


のちにキリルが病死後、メトディオスは情勢の悪化したモラヴィアで一人奮闘していくことになるが…、それはまた、別の歴史の物語。




そんなこんなで、カレル広場のお二人の像にご挨拶がてら、その名を冠した教会でも見ていくかと思い立ったがコトの始まり。
ウロ覚えで、ナチス関連のなんかがある…とは知っていたものの、あんな重たい場所とはおもわなんだ。




ナチス・ドイツのチェコ併合は1939年。
それに先立つ数十年は、大雑把に言うと、チェコ人によるドイツ系住民の追放と、逆にドイツから併合支配を付け狙われる時代である。


チェコ王が神聖ローマ(ドイツ)皇帝を兼ねていた時代もあり、もともとチェコにはドイツ系の住人も多かったのだが、1916年のチェコスロバキア成立時に民族意識の高まりもあって「ドイツ人は出て行け」という排斥活動が行われたようだ。結果的にドイツ系住人がになっていた産業が衰退し、国力を衰えたところにナチス・ドイツが介入してきた…という流れ。

で、ナチスがチェコ支配のために送り込んできたのが、ユダヤ人虐殺で知られる「金髪の野獣」ハイドリヒ。
この人は当時のチェコスロバキア首相の処刑も行っている。


チェコスロバキア政府はイギリスに亡命。イギリス政府と協力し、ハイドリヒ暗殺計画をたてる。
暗殺は成功したものの、暗殺者たちは逃げ切れず、この「聖キリルとメトディオス教会」に立てこもり抗戦した。しかし――戦力差は決定的だった。

七人のうち三名は、投げ込まれた手榴弾と機銃掃射により絶命。残る四名はピストル自殺の道を選ぶ。
しかし悲劇はこれだけで終わらず、ナチスは暗殺実行者たちの出身地である五つの村のすべての男性を皆殺しにし、女性と子供は強制収容所送りにした。まさに「一族郎党みなごろし」。

悲劇の舞台となった教会は、悲しみの記憶を留めるための記念館として使われているのだった。






さて、この教会、礼拝堂は玄関の階段上がって2Fにある。
中は薄暗く、特に目立つものもない。前庭はよく手入れされているがとても狭い。

2Fはふーん、こんなもんですか。という感じで終わり、1Fに降りて入口で記念館のチケットを買って中に入ると、いきなそこはナチス時代の軍隊ルームだ。軍服やライフル、旗が飾られており、壁には写真などの資料パネルがびっしり。ハイドリヒ暗殺から暗殺者たちの死までの顛末を説明している。人は少なかったが、真剣に眺めている人が多かったのが印象的だった。

暗殺実行部隊の出身のひとつ、リジツェ村で行われた殺害の様子の映像は、白黒でありながらインパクト大。
ハイドリヒ死亡を伝える新聞記事のコピーや、犯人殺害のため教会周辺に張られた非常線の地図などもあった。


そして奥の部屋、もとは教会の地下室、遺体安置所であったとおぼしき場所に踏み込むと…
そこには、戦って死んだ七人のかつての笑顔と、ものいわぬ死後の写真とが、並んでお出迎えなんだ…。



これは重い。かなり重い。

天井に残る爆破の跡。笑顔と死に顔のギャップ。
戦争というのは人の「個」が見えないから他人ごとで済むのであって、「個」として人の生死を捉えると、とたんに耐えがたくなる。かなりの欝スポットなので、心臓の弱い人にはオススメできない。

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教会の外壁に取り付けられている記念板の下には機銃掃射の弾痕が残されているが、中の人々はその下にある窓の部分から応戦していたらしい。ここが破られ、爆弾が投げ込まれたことで数人が死亡。毒ガスが送り込まれて地下にいられなくなり、自決を決意した、…らしい、説明を読んだところでは。

死んだ人の写真を、死んだその場所に飾ってるから余計に重いんだと思う。



ちなみに、この事件を題材にした作品もある…そうです。
興味のある人は…さがしてください…。

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