チェコ聖人列伝PART2 「宗教界の王に 俺はなるッ」王妹アネシュカの野望

古今東西、キリスト教でいうところの聖人というものは基本的に空気読まない人たちである。

周りが異教徒だろうが俺はこの宗教一本でいく!と主張し、宴会場だろうが葬式の最中だろうが病人がいようが無理やり布教しに行き、開き手が誰であろうと自分の正しさを主張し、他の宗教の聖職者が困るやん…とか、そんなことは考えない。空気も人間関係もブッ壊せ! そんな究極の空気読まない突き抜けた人間こそ聖なのである。

「突き抜けても 転がり落ちても 世間の外」 とは、まさにその通りでございます。



中でも特に「俺様ロード」を貫く傾向の強いのが、チェコの聖人さんたち。
ヤン・フスといいヤポムツキーといい、もうちょい世間渡りが上手ければ、聖人にはなれんかったかもしれんが長生きはできたんちゃうのと言いたくなるカンジの人たち。そんなチェコの聖人さんたちの紅一点…ではないが女性の聖人で、天寿は全うしたものの、確実に「俺様ロード」を貫いて生きた人が、聖アネシュカさんである。



アネシュカは、伝説ではチェコ建国の一族と言われているプシェミスル家の王女として13世紀はじめに誕生した。兄は、のちの国王ヴァーツラフ1世。有力な他国の王との縁談が何件もあったものの、諸事情によりどれも実現せず、修道院に預けられているうちに父王が他界してしまう。

12-13世紀に女子用の学校があるはずもない。お姫様が貴婦人となるべく教育を受ける場所といったら尼僧院だったわけだが、そこに預けられていつか嫁ぐ日を待っているうちに、どうやら彼女は別の道―― 宗教の道に目覚めてしまったようである。




さて、そんなアネシュカが創立し、のちに彼女自身もそこに眠ることになる修道院が、プラハの中心部から、かつてのユダヤ人街を抜けた先にある。ヴルダヴァ川に面した、住宅街や病院に囲まれたあたりである。

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※川沿い側のフェンスごし撮影。



ユダヤ教のシナゴーグの建つユダヤ人街の隣にフランチェスコ会派の教会というのは、いささか奇妙な取り合わせに思えるが、古さでいえばこのアネシュカ修道院のほうが先で、あとからシナゴーグが増える際にアネシュカ修道院が抱えていた石工を使って良いと国王が許可を与えたこともあったらしい。

アネシュカは自ら建てた修道院に入り、一時は院長も努め、そこで生涯を終える。
――ただし、それは隠遁生活ではなく、おもて舞台で叶えられなかった「世界の頂点」を宗教界でかなえるための、野暮に満ちた一生であった。


チェコに独自の修道会を作る。ドイツの司教座から独立した修道院を建てる。
のみならず、この時代のチェコはドイツの神聖ローマ皇帝の下についている諸侯扱い。
世俗権力の頂点である皇帝と、宗教界の頂点である教皇の不和はいまだ続いており、チェコ王はどちらからも味方につけと勧誘される立場にあった。

アネシュカが選んだのは、聖と俗のどちらにも肩入れせず、どちらも手玉にとりながら王家の有利になるようコトを運ぶという方法だった。ある意味、彼女は、女性ながら政治家として生きた人物といえるかもしれない。
とりあえず確かなことは、彼女の場合、非業の死を遂げたほかのチェコの聖人たちと違って空気は読めた。 これ重要。やっぱ世渡り上手じゃないと長生きして聖人ってなれないよね…。







聖アネシュカ修道院は、近代には荒れ果てており、一時は武器庫にも使われていたといい、建てられた当時の面影はほとんど残されていない。内部の一部はコンサートホールに使われ、それ以外の部屋はこんな感じでがらーーんとしている。

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↑ここが中心の礼拝堂





今は何もなくなっている修道院内部にかつてあった装飾品は、修道院の2Fに作られた美術館に陳列されている。かつて修道士たちが暮らした僧房を改造したのだという。木彫りの像、聖書、儀式用の貴金属器、宗教画といったお決まりの品々が並ぶ中、特徴的だったのは、聖カタリーナがとても多いということだ。

参考:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%8A

エジプトのシナイ山に「聖カタリナ修道院」がある。車輪をシンボルとする。



アネシュカには、こんな逸話がある。

妻に先立たれ、再婚相手を探していた神聖ドイツ皇帝フリードリヒは有力諸侯の一人だったチェコ王の妹を再婚相手に迎えたいと考え、その兄ヴァーツラフ1世に縁談を持ち込む。しかしヴフーツラフ1世の返答は、妹アネシュカは既に「最高の王」たるキリストの聖なる花嫁として修道院で暮らすつもりである、というものだった。

そこで皇帝は、相手がキリストであれば仕方がないと、縁談を断られたのに、逆に修道院に様々な寄進を行ったのだという。




――この話が史実かどうかはともかくとして、聖カタリーナもまた、ローマ皇帝の求婚を断って「キリストの聖なる花嫁」として生きる道を選んだ聖女だった。ために、聖カタリーナとアネシュカが同一視されたのだろうと推測される。

他には、

・エジプトのマリアがマグダラのマリアより目立っている。

 エジプトはカトリックではなく東方正教会系だが…。なぜエジプト。

腹ボテ 妊娠中の聖母マリアという珍しい像が何体もある

 マリアといえば受胎告知・聖母子像・ピエタの三種類が王道なので、
 これは型破り。


と、いった特徴も。

女性が建てた修道院ということで、元々は聖母マリアに捧げられていた修道院だし、その他の女性聖人も重要視されていたことは理解できるが、なぜ妊娠姿なのかが良く分からない。何か独自路線の教義を持っていた可能性もありそうだ。そのへんは宗教史や宗教美術の得意な人に考察を任せる(笑)





皇帝からも教皇からも、兄である国王からも重要視され、プラハ市民からも尊敬されたというアネシュカ。

彼女は、兄の息子プシェミスル・オタカル2世の戦死後、チェコが混迷の時代を迎える中、70歳の生涯を閉じる。もう少し長生きしていれば、その後の王国の危機は違った様相を呈していたのかもしれないが…。

修道院の中、彼女の埋葬された場所には今もプレートと石碑が残されているが、残念ながら彼女の遺体はここにはない。数百年後の15世紀、プラハの街はカトリックvsプロテスタントの壮絶なバトルに巻き込まれていくことになる、その騒乱のさなか、略奪を恐れた修道院の人々が遺体をどこかへ避難させようとして、そのまま行方不明になってしまったらしい。

もっとも、遺体が無事で、のちのちの世まで聖遺物扱いで見世物にされるのとどっちが良かったかは謎だ。


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ちなみに、彼女の兄であるヴァーツラフ1世の墓もここにあり、アネシュカが眠っていた部屋のとなりの部屋にプレートが埋めこまれている。ここもご本人の遺体があるわけではないらしい。今では棺などの装飾もなく、寂しい限り。

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ヴァーツラフ1世の息子プシェミスル・オタカル2世の棺は、プラハ城内にある「プラハ城の歴史」館の中で見ることが出来る。プラハの、いや、チェコの一つの黄金時代を彩った人々の名残りである。





王家に生まれながら聖なるものとして頂点を目指した一人のお姫様の、華麗にして数奇なる一生。
そんな物語もあるのだと、宵闇迫るプラハの街を歩くときには思い出してみてください…。

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尚、チェコ名の「アネシュカ」は、ドイツ語でいうと「アグネス」になる。
そのためガイドブックには「聖アグネス」と書かれていることもあるのだが、… アグネスという名前は日本ではいいイメージがないため、ぜひともアネシュカで押し通していただきたいところである。