古代エジプト宗教からキリスト教へ至る道 -コプト教のはじまりからの流れ

資料を漁っていたら 殉教者 聖ホル を見つけて盛大に吹いた。
* ホルス神と同じ名前…

初期にエジプトで使われた十字架がアンクと区別のつかないまんまな形をしていたことも、古代エジプトの神殿を改造してそのまま教会にしていたことも、マリア(聖母)崇拝が盛んなことも、実は全部繋がっていた。十字架とアンクが同列に扱われ、神殿の至聖所の暗がりに教会の原型を見出し、聖母マリアの処女懐胎の上に女神イシスが死んだ夫との間に息子をもうける神話を重ねる。
古代エジプト宗教をそのまま改造したのが、エジプトにおける初期キリスト教と見てもいいだろう。

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アスワン:フィラエ島のイシス神殿内部に作られた祭壇
(イシス神殿そのものを修道院として使ってしまった)


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コプト十字。真ん中のものは今でも使われている。
両脇のはもう使われていないが、モロにアンクです…
(コプトの十字架は、カトリックのそれと形状が異なる)



古代エジプトには沢山の神々がいたが、そもそもファラオ時代においても、それらの全てが等しく崇拝されていたわけではない。

地域によって人気の神様は異なるのが普通だったし、自分の住む町の守護神を特別に崇めたり、職業によって一位の神が違ったりしていた。そうした中、キリスト教の神は、はじめは数多の神々と同列に扱われ、その中から「自分が選び取った神」という扱いを受けて広まっていった… そう私は解釈した。

多神教と一神教では折り合いが悪そうに思えるかもしれないが、古代エジプト宗教は、ある「地域」だけ切り取れば、ほぼ一神教に近い側面も持っていた。
たとえば、プタハ神という鋳造や工芸の神がいるが、プタハの守護地メンフィスではプタハ神が最高の神であり、世界を創造した唯一神として崇められた。もちろん他の都市には他の神様(たとえば太陽神ラー)がいて、その神様が世界を創ったことになっているので、「世界創造の神が沢山いることになるじゃないか」という話しになる。でもそれでいいのである。「ヨソはヨソ、ウチはウチ」、うちの町ではうちの神様が一番えらい。よそのことは知りません。
キリスト教が伝わってきて、うちの神様は世界創造の唯一神です、といわれても、ふうんそうか。と、なったと思う。

祈ることは、周囲を砂漠という厳しい環境に囲まれながらナイルのほとりに暮らす人々が、人智を超えた存在を信じ、その存在に対し心を向けること。祈りを捧げる相手がどのような神であれ、祈る行為と心そのものは古代から変わり無かったのだ。


 古代エジプトでは、キリスト教が広まっても
 古代エジプト宗教とキリスト教が共存していた時代は実は長い。

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デンデラ:ハトホル神殿前に作られた修道院跡
(神殿の敷地内に修道院を作ってしまった)



ただし、エジプトでもキリスト教が決定的に変容する時代がくる。
それがだいたい5世紀ごろ。

391年に古代エジプト宗教が禁止されて以降も、実際はナイル上流の聖域のいくつかではまだ信仰が続いている。(アビドスやデンデラといった古くからの宗教地)

しかしデンデラに近いソハーグに建設された「白の修道院」の院長もつとめた聖シェヌーダなどはそれが許せなく、「攻撃する修道士」として神殿の打ちこわしに走ったのだという。

古代エジプト宗教を否定し、「攻撃」しはじめた時代。まだ残っていた古代エジプトの神々を崇める人々に対し攻撃を加え、自らの国の過去を否定しはじめた排他的な時代。古代エジプト人の持っていた宗教に対する寛容さ、他民族の神すらも取り込んできた数千年の歴史が断絶する瞬間である。


 古代エジプト宗教の真の終焉は
 キリスト教に改宗したエジプト人が、同じエジプト人の古代からの信仰を
 否定した時である。


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ソクソール:カルナック神殿内の石像を改造して創られた十字架
(中央に王、両脇に女神または王妃がいたのを削って十字架に作り変えた)



ヒエログリフの死滅はその後… イスラム侵攻後になるが、残っていた古代の神々の神官たちが同じエジプト人に攻撃されて消えていったことと連動しているのだろう。古代エジプト宗教が人々の目の前から消えていくのはだいたい6世紀くらいとして、キリスト教が広まり始める2世紀から、約400年かけて宗教の入れ替えが行われたと考えることが出来る。


ちなみに、ソハーグもそうだが、ナイルの中~上流にコプト教徒が多いのは、キリスト教徒が弾圧された4世紀以降、ナイル下流のアレキサンドリアやカイロから、多くの信者が逃れていったためだという。最初にキリスト教を伝えられたのは、聖マルコが上陸した、国際都市アレキサンドリアの人々。(ここはユダヤ人が多く居住していた地域でもある) そして、改宗した人々が北から南へ移住することによって南エジプトにもキリスト教徒が増えていったというわけだ。

コプト教の祭礼は、当初から現代に至るまでギリシャ語の影響を受けたエジプト語(コプト語)で行われ、ローマやコンスタンティノープルのようにラテン語は使われていなかった。また、コプト教は原則としてキリスト教と違いは無く、聖書を基本としている。ただし後述の年表に出てくるように、第二回エフェソス会議から引きずる対立のため451年 カルケドン会議からはローマ主教座と完全に分離してしまい、同じキリスト教でありながら「反ローマ」として歩んでいくことになる。




【コプト教 簡易年表】

30年 エジプトがローマ領に

40年~45年頃 聖マルコエジプト上陸、伝道開始

68年 聖マルコ、アレキサンドリアで殉教

202年 セプティミウス・セヴェルス帝によるキリスト教徒迫害開始

284年 コプト暦のはじまりの年
     ディオクレティアヌス帝によるキリスト教徒迫害開始

313年 ミラノ勅命(コンスタンティヌス帝) キリスト教公認

325年 ニカイア会議

アレクサンドリア主教アレクサンドロスと従者アタナシウス、カッパドキアのカイザリア主教レオンティオスにより「原ニカイア信条」が書き上げられる。

381年 コンスタンティノポリス会議
     「原ニカイア信条」の確認


主教同士の権力争いになり、ローマ主教が第一座、コンスタンティノポリス主教が第二座となり、続いてアレキサンドリア、アンティオケ、エルサレムと決定される。このためエジプト主教は怒って場を引き上げてしまう。
(コプト側の主張では「主教に順列をつけることにアレキサンドリア主教は反対した」となっている。しかし迫害に加担したローマ帝国より下位につけられたことへの憤りや、「原ニカイア信条」の作成者はアレキサンドリア主教であったのに第三位にされたことへの不満が無かったとは言い切れない)

391年 テオドシウス帝がエジプトの古代神殿崇拝を禁止

408、410年 ベドウィンによる修道院襲撃

431年 エフェソス会議

アレキサンドリア主教キリゾが参加。ネストリウス派が異端と決定される。また、マリアを「神の母」と呼ぶことが決定される。

444年 ベドウィンによる修道院襲撃で49人の殉教者を出す

449年 エフェソス会議
    ユウティケスの糾弾


コンスタンティノポリスの修道院長ユウティケスがキリストの人性を否定したとしてコンスタンティノポリス主教フラビアノスが破門宣告を下したことに対する査問会議。この会議で、逆にフラビアノスが破門されることになる。

451年 カルケドン会議 コプト教が独自路線を歩み始める

ローマ主教レオとアレキサンドリア主教ディオスコロスの対立が直接原因。実際にはディオスコロスはキリストの人性を否定する「キリスト単性論者」ではなかったとされるが、レオ側は、先のエフェソス会議でフラビアノスを放免させたとしてディオスコロスを単性論者と罵り、教会法違反によって免職と決定させる。
ディオスコロス主教は幽閉後にその地で死去。

ディオスコロス主教の免職後、ビザンツ皇帝は独自にアレキサンドリア主教を指名する(ビザンチン主教)がコプト教徒がこれを拒否し、以降、640年のイスラム侵入までエジプトには二人の主教が並立する状態が続く。

466年 修道院制を作り上げた人物、聖シェヌーダ(白の修道院)、没

639年 イスラム侵攻

642年 ローマ帝国軍がエジプト国内から撤退
     エジプトの二重主教制が解消される



コプト側の選定したアレキサンドリア主教バニヤミン(ベンジャミン)は、交渉によりコプト教を生き残らせることに成功
イスラム侵攻によりビザンツ帝国の圧力が弱まったため、ビザンツの迫害を逃れ転々としていたコプト主教座があるべき場所に戻る



このへんは、資料が見つかったらもう少し詳しく調べてみたい。
しかし日本語のコプト資料すくねえ…。