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zoom RSS ツタンカーメン発見とハワード・カーター: エジプト人のナショナリズム

<<   作成日時 : 2009/12/25 21:28   >>

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近年ではザヒ・ハワス博士がエジプト古代遺物の返還運動を盛んに繰り広げているが、その根底には長い歴史に対する矜持と、おそらくナショナリズムが存在する。ナショナリズムと言ってしまうと勘違いされそうだが、要するに、「古代エジプトは自国の過去、栄光の歴史は自分たち古代エジプト人の子孫のもの」という意識だと思えばいい。

現代エジプト人が、古代エジプトを自分たちの誇るべき過去ととらえはじめたのは、ごく最近のことのように思う。最近といっても何十年も前からあったのだろうが、具体的にいうと、第二次世界大戦以降に発達してきた意識だろう。

エジプトが欧州列強の言いなりにされていた頃、持ち出される貴重な古代遺物を国内に留めるすべは無かった。市場で観光客向けに売られているものをお金持ちの旅行者がひょいと買いつけ、個人の荷物に紛れ込ませて持って帰る、そんな時代が長く続いた。

博物館もなく、国内に専門の学者もおらず、エジプト人自身が遺物を管理するすべを持たなかった時代はそれでも良かった。自費で宝探しにやって来る好事家たちは、地元にお金を落としてくれて、観光地も開発してくれる存在として重宝された。(…ちょうど今のエジプトで、吉村作治氏が同じような扱いを受けているのは何とも皮肉なことに思える。)


しかし、エジプトは、時間をかけて自国内で専門家を育ててきた。
多くの資金をODAに頼っているとはいえ、遺品を管理できる大掛かりなハコモノ、博物館や美術館を各地に建設してきた。「今なら自分たちの手で過去を管理できる」。その自身が、かつての列強国への古代遺物返還運動に繋がっているのだと見て良いだろう。


****************

エジプトでの発掘が、お金持ちのただの「宝探し」から「学術調査」へと決定的な変化を遂げたのは、20世紀初頭のことだ。ちょうどツタンカーメンの墓が発見され、墓のうちに眠る多くの財宝が人々の目に晒された時代が境目となる。

ハワード・カーター、カーナーヴォン卿の二人は、ツタンカーメン王墓の発見者として知られている。
独学でヒエログリフを学んだカーターは、紆余曲折を経てカーナーヴォン卿の支援を受ける身となり、王家の谷での発掘を開始した。墓があるに違いないと信じて突き進んだ強い信念、もうこれで最後という年になってついに目指す墓を発見したという物語は、ややロマンティックな論調で語られることが多い。

しかし、その発見の後、発掘が終了するまでの約10年、カーターがいかに揉め事を引き起こし、遺物に不適切な扱いをしたのかは、ほとんど語られることがない。

この手の暴露話は、ただ美しい物語だけを求める人には頭ごなしに否定され、まるで偉大な人物にケチをつけようとする卑劣な小物のような扱いを受けがちだ。しかし残念ながら、この醜聞は事実である。なぜなら、ツタンカーメンの墓から持ち出されたコレクションがカーターやカーナーヴォン卿の死後、世界各地の美術館に売られて散っていったことは事実だからだ。



カーターは、墓の発掘の手伝いにアメリカのメトロポリタン美術館の手を借りた。その見返りとしてなのか、持ち出した二十点ほどの遺物をメトロポリタン美術館に譲っている。さらに、カーナーヴォン卿の死後、そのコレクションの中にあったツタンカーメンに関する遺物のいくつかも、追加購入している。カーターの遺品の中には、ツタンカーメンのナの記された黄金の指輪もあった。それはのちに遺族によってエジプトに返還されている。

しかし、発見した墓から、発見の功労者が最もよいものを選び出して抜き取るのは、ツタンカーメン王墓の発掘が始まった「当時」なら、許されていたことなのである。少なくともカーター以前の発掘者たちはみなそのようにしてきた。ただし、王家の谷は既に略奪され尽くしており、あまり重要なものが出てこなかったのでそれほど問題視されなかったという面もあるだろう。
それが違法となり、エジプト人にとって望ましくないものとされたのは、1922年の墓発見当時ではなく、発掘終盤のことである。


時代が変わったことに、カーターは最後まで気が付かなかったようだ。

自分が発見した、すなわち「自分のもの」である墓を自分がどう扱おうが、見つけた遺物をどう分配しようが、本当は自分の勝手なのだと思っていた。発掘にエジプト考古庁を立ち会わせることを邪険に断ったことも、発掘の情報をロンドン・タイムズにしか売らず、地元エジプトのメディアをぞんざいにしたことも、イギリスやアメリカの貴族たちに墓を見学させるのをエジプト当局に阻止されて烈火のごとく怒り狂ったのも、全ては「この墓は自分のものだ」という意識から出たものと考えれば、何の不思議もない。また、発掘許可を取り消されたことについて訴訟を起こすということも、発掘に関してエジプト考古庁が口を出すのを嫌って暴露本を発表したりするのも、現代では考えにくいのではないだろうか。

自国の財産の権利を主張するエジプト側に対し、カーターはひたすらケンカ腰に当たったようだが、当時エジプトには適切な方法で科学的な発掘を行える技術者はおらず、貴重な展示品をどう管理すべきかについての知識を持つ者もいなかった。民衆の反感は大きかったが、エジプト側としては、なんとか穏便に、カーターに仕事をさせたかったように思われる。
結局カーターが最後まで仕事を続けられたのは、他に適切な代役が見つからなかったから、ということに尽きる。



カーターが、長い年月をかけ、困難な仕事をやり終えたことは事実である。
しかし彼の生きた時代はエジプトにおける古代遺物に対する意識の転換期でもあった。

歴史は誰のものでもない。王は何者にも所属しない。カーターはその名をこの世に蘇らせた功労者ではあっても、決して墓の所有者にはなりえなかった。カーター以降、宝探しによる発掘の時代が終わりを告げ、もはや外国から発掘にやってくる何者も、発見された遺物には所有権を主張できなくなっていく。


時代の転換期は1925年頃だと思われる。それはカーターが強く信じていた発見者の優位が明確に崩れた年であり、発掘に戻るため、カーターは多くの譲歩を強要された。最も彼は、その時には既に、それまでの発見物の一部をこっそり運び出して我が物としていたのではあるが。


1922年 ツタンカーメン王墓の発見
  ↓
1923年 新政権が遺物の国外持ち出しを禁止
  ↓
1924年 石棺が開けられる
  ↓  政府とモメてカーター 発掘を放棄
  ↓  政府に墓から締め出され、訴訟を起こす
  ↓
1225年 発掘に関する条件を改訂し、発掘再開
  ↓
1932年 発掘終了

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