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zoom RSS エジプト・イスラエル考古学資料クロス「旧約聖書の世界」

<<   作成日時 : 2009/05/06 15:17   >>

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ゴールデンウィーク中に録画した有料チャンネルの特番を消化中。
ナショジオ・チャンネルでやっていた「覆る聖書の常識」は、かなりのアタリ。生産費が十分かかってるのが判るし、何より内容が濃いのと、構成がうまい。再現VTRの雰囲気もバッチリだ。

文献資料・過去の研究を踏まえつつ、最新の考古学資料と研究で聖書の内容を辿っていくというものなのだけれど、エジプトの石碑や神殿などに残された資料と、イスラエル側の遺跡の調査をクロスさせて追いかけているのが面白い。

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内容の大筋は、以下の二点。

旧約聖書は、どのていど考古学資料で裏づけがとれているか。

もう一つは、旧約聖書は、いつの時代に書かれたか。


旧約聖書の物語は、もともと口伝だったものが、ヘブライ文字の成立とともに文字記録になったものと考えられている。しかし口伝も文書も、書き写され、編纂される過程で形を変えていく。羊皮紙やパピルスに書かれた文字は朽ち、古い記録は残りにくい。最初の物語がどんな形だったのか、始まりは何時だったのかを知ることは困難だ。
そこで役に立つのがエジプトの「石の」記録。巨大な神殿の壁に刻まれた記録は、何千年も経った今でも読み取ることが出来る。またエジプトは、旧約聖書にもしばしば登場する国だ。エジプト側の記録と聖書の記述が一致すれば、その出来事は歴史的な事実だったという可能性が高くなる。エジプトとイスラエルの資料が使われているのは、そういうわけ。


驚くべきことだが、旧約聖書の「完成」はバビロン捕囚の時代のバビロニアである可能性が強まっているという。
イスラエル人は一神教の崇拝者ではなかった。"ダビデの王国"が栄えた頃、すなわちイスラエルが栄光の中にあった時代には、イスラエル全土で多神教が信仰され、人々の家からはその証拠となる祭壇や女神像が見つかっているという。王国が繁栄した時代、唯一神の信仰は、エジプトでアクエンアテンが改革を起こした時と同じく、王や一部の上層階級にしか浸透していなかった。
しかし、多神教の証拠の出土は、バビロン捕囚の時代を境にぱったりと途絶える。王国が滅び、捕囚の苦しみを前にして、人々は、それを神の教えを守らなかったせいだと考えたのかもしれない。そして、古来からの唯一神の教えや警告を思い出し、それを新たな民族のアイデンティティとすることを選んだのかもしれない。してみれば、一神教崇拝がもともと選民思想を持っていたのも、自然な流れと言える。





まず最初に登場する注目すべき資料は、カイロ考古学博物館にあるイスラエル石碑。いわゆる戦勝碑、戦争の記録を記した石碑なのだが、そこにイスラエルという民族名が歴史上はじめて登場する。

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この石碑は、新王国時代は第十九王朝、ラメセス2世の息子メルエンプタハ王の時代の記録だ。かつては、旧約聖書に書かれた「出エジプト」の王であり、海が割れたとき戦車ごと海に飲まれて溺れ死んだという説が唱えられていたこともあった。
石碑に記録された、イスラエル(カナアン)方面への遠征の記録は、こうなっている。

「アシュケロンは征服され、ゲゼルは占領された。イェアノムは制圧された。イスラエルは滅ぼされ、子孫は絶えた。」

実際はイスラエル人は全滅していないが、まぁ、まぁ、エジプト人のいつもの誇大表現と思えばいい。
引き分けでも負けでも「勝利した」としか書かない。これが古代エジプトのお約束。

この石碑から判ることは、メルエンプタハ王の時代に、現在のイスラエルのあたりに、イスラエルを名乗る人々が存在し、エジプトからも認識されていたということ。彼らはエジプトとの同盟関係には無かったか、朝貢しなかったために敵と看做され攻撃されたということ。
記録されたのは紀元前1208年。メルエンプタハの在位は約10年なので、モーセに率いられた民がエジプトを出てから40年も荒野を彷徨ったという旧約聖書の記述を信じるならば、出エジプトはメルエンプタハの前の代、すなわちラメセス2世のころということになる。

それを裏付けるのが、旧約聖書で最も古い言葉遣いで書かれているとされる「出エジプト記」の序盤の一節だ。
「イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを築いた」。ピトムとラメセスに該当するのが、ラメセス2世の建設した「ピ・ラメセス」。意味は、まんま「ラメセス2世の町」(家)で、自己顕示欲の強かった建築マニアの王様にいかにも相応しい名前となっている。

この町の場所は、現在のタニス周辺。ナイル下流のデルタ地帯の東側。
当時、ピ・ラメセスから中東へ向けては、とりでを伴う街道「ホルスの道」が存在した。つまり、ピ・ラメセスから逃げ出した奴隷や労働者がエジプトを出国しようとしたら、街道を避けて、地中海もしくは紅海の海沿いを行くしかない。

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と、いうわけで、「出エジプト」にある「海が割れた」という記述は、ほんとうに海が割れたかどうかはともかくとして、海沿いを逃げたということの裏づけになる。(運良く天候が悪化したことで、逃亡に成功したのかもしれない)

ただし、奴隷の逃亡にファラオ自らが出陣したとは思えないし、それほどの軍が割かれたとも思われない。
また、エジプトからの脱出も、大人数が一斉に移動したという痕跡はないという。おそらくエジプトから脱出した人数はそう多くなく、脱出の物語が世代を経て伝説のように語られ続けるうちに、尾ひれがついていったのだろう。モーセという人物が実在したかどうかも今のところ不明である。



さて、この出エジプトを示唆し、手助けしたとされる神様だが、モーセに「あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である」と名乗っている。その名はYHWH、本来は発音できないらしいが日本語では習慣的にヤハウェ、または単に主(しゅ)と置き換えられる。研究は、このYHWHという言葉の正体まで及ぶ。

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「出エジプト記」によれば、モーセはエジプト人を殺しエジプトから逃亡してミディアンの地へ赴く。そこでミディアンの祭司の娘と結婚し、羊飼いをしている時にYHWHと出会う。カルナック神殿の壁に刻まれた記録によれば、その時代、ミディアンの近くにはシャスという民族が住んでおり、彼らのすむ土地の名前がYHW(ヤフ)。崇拝していた神もYHWという名だった。
地名と神名が一致する例はエジプトでもよくあるパターンで、たとえばバストの町の守護神がバステト(またはバスト)だったりする。

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カルナック神殿の、シャス人に勝利したという記録は、ラメセス2世の父親であるセティ1世の時代。
シャス人が住んでいたのは、のちにモーセが逃亡生活を送るミディアンのすぐ南にあるYHWという土地で、彼らの神もまたYHWと呼ばれた。

ここまで符号が揃うと、じゃあ モーセが出会ったのはシャス人の神だったんじゃん という話になる。
まあ、つまりそういうことだ。
あとは、そもそもイスラエル人って元は何人だったの? どこから来たの? という話になる。シャス人の神が、なぜモーセに「先祖の神」と語りかけたのか。

結論から言うと、イエラエル人は一つのアイデンティティのもとに様々な民族によって形成された雑多なコミュニティだったのではないか、と考えられている。民族が同時期に大移動した記録はないが、エジプトから逃げ出した少数のグループはいたのかもしれない。そして、たまたまたどり着いたのがシャス人の住む地域だった。
このグループには、遊牧民や、カナアンから逃げ出した下級層の人々もいただろう、とされている。神による導きと、エジプトからの奇跡の脱出の物語は、そうした雑多な人々をまとめ、希望を持たせるために作られ、伝えられた。そしてやがて彼らのバイブルとなっていくのである。


*続く

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