ヒッタイト続編 ~カマン・カレホユックと鉄の話

前エントリ、「世界最古の鉄器発見でヒッタイト起源説否定。のニュースに食いついてみる」からの続き。


以前、東京理科大の調査から「世界最古の鉄剣は隕鉄から作られていた」ことが分かった、というニュースが流れたことを、考古学ファンの方なら覚えているかもしれない。トルコのアラジャホユック遺跡から出土したもので、アナトリア文明博物館が所蔵している。
実はこのニュースが、今回の世界最古の「鉄が人工的に製造された証拠」(※”最古の鉄器”ではないことに注意!)が見つかったニュースと繋がっている。

アラジャホユックとカマン・カレホユックは、ともに「赤い河」の内側にあるヒッタイト帝国の心臓部に位置する。
ヒッタイトの鉄に魅せられ、その製造場所を長年探していた大村 幸弘氏は、アラジャホユックがエジプトとの外交文書に見られる「鉄の生産地:アリンナ」であることをほぼ確信し、かつアラジャホユック以外の製鉄場所でもあるカマン・カレホユック遺跡の発掘に一生を捧げる決意をされたのだという。

アラジャホユックの隕鉄製の剣が隕鉄というのは、最近判明した話ではない。昔から言われていたし、同時に見つかった鉄製品が隕鉄であることは調査済みだった。調査は「再確認」でしかない。
だから、あのニュースで本当に重要だったのは、欧米の発掘隊に不快感を示して他国調査隊に遺物の調査を許可しなかったトルコ政府が日本の大学が遺物の科学調査をするのを認めたということ、日本の発掘隊に例外的な発掘許可を与えているという事実だろう。


そして、もう一つ。日本の発掘隊が丁寧な仕事をしたのもそうだが、珍しく、文献資料以外の出土品(鉄滓とか)にも興味を示したということだ。

そう意外な話でもないのだが…、文献学者は遺跡から出土する「文献資料」、つまり楔文字の刻まれた粘土板などには強い興味を示したものの、それ以外の出土品にはあまり注意を払わないものなのだという。だから出土した鉄滓も、腐食した鉄製品や、炉の跡だったかもしれない遺跡も、今までは打ち捨てられてきたのだという。ヒッタイトは鉄の国、と言われてはいたが、その鉄がどのような流通をしていたか、どこで作られていたか、どのように鉄の秘密が他国に漏れないよう守られていたか… なども、まだあまり研究が進んでいない。

人間、興味のないものは見えないものだ。何が重要な発見で、何が意味のない発見なのかは人によって違う。
ヒッタイトの鉄に魅せられた大村氏がリーダーの日本隊が発掘していなければ、カマン・カレホユック遺跡の鉄滓は、発見されていても無視された可能性がある。
ハトシェプスト女王のミイラが、棺にもも入れられずに100年も墓の中に置き去りだったのと同じように。
…そんなもんなのだ。


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さて、ニュース記事の内容だが、

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中近東文化センター(東京都三鷹市)が調査を続けているトルコのカマン・カレホユック遺跡で、紀元前2100~同1950年の地層から、小刀の一部と見られる鉄器1点が発見された。鉄滓(てっさい)(鉄を生産・加工する時に出るかす)と、鉄分を含んだ石も確認され、鉄づくりが行われていたことが確実になった。


これがなぜ大ニュースなのかというと。
紀元前2100年~1950年ごろは、今まで鉄が作られていないとされてきた時代 だからだ。

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編年表見てようやく意味を理解したぜ^^; 
だから、記事の中で「上の地層から落ち込んだ可能性も否定できなかった」と言ってるわけだ。上の層はもうヒッタイトの時代なんだから、そこから見つかっても大発見じゃないから。

時代の流れを簡単に書くと、こうなる。

                前1930年頃          前1200年頃
                 │                │
 先住民(プロト・ヒッタイト) >小国乱立>統一・帝国時代>帝国崩壊(暗黒時代)
                  ↑
                  アッシリア商人と途中まで共存


ヒッタイトには「ヒッタイト古王国時代」と「ヒッタイト帝国時代」がある。古王国時代は小国乱立状態、統一されてからが帝国と呼ばれる。ヒッタイトが移住してくる以前に他の民族が居たことも知られており、プロト・ヒッタイトと呼ばれる。ただし、プロト・ヒッタイトが何者だったのか、のちに帝国を築くことになるヒッタイト人と別の民族だったのかなどは不明だ。

アッシリア商人は、ヒッタイトの集落の近くで商業をやりながら共存していたが、ヒッタイトがある程度力をつけたところで、追い出されてしまったか、虐殺されてしまったらしい。

カマン・カレホユック遺跡では、この「プロト・ヒッタイト」の時代の終わりごろが、紀元前2100年~1950年にあたる。
そして、プロト・ヒッタイトの居住時代の痕跡は、焦土層(文字通り焼けた土。戦争の跡)を境にヒッタイト古王国時代の痕跡に切り替わる。


…つまり。

この発見は、ヒッタイト古王国時代の人やアッシリア商人がカマン・カレホユック遺跡に住む以前から、同じ場所で鉄が既に作られていたことを指し、鉄の発明者が「プロト・ヒッタイト」と呼ばれる人々であった可能性を示唆するものなんだ。
ヒッタイト古王国時代の層の前にある焦土層は一般には戦争を意味するだが、誰と誰が戦ったのかは分かっていない。技術がヒッタイトの時代まで受け継がれているのだから、少なくともヒッタイト以前に住んでいた人々は、死に絶えていなかったと言える。

と、いうか、プロト・ヒッタイトとヒッタイト人が別の民族なのか元々同じ民族で移住した時期が違うだけなのかもまだ分からないんだから、「鉄を発明したのはヒッタイト人ではなかった」とは、実は、まだ言えない。


だから記者が書くべきだったのは、鉄器製造開始の始まり年が、少なくとも400年前倒しになりましたよ、ってことだったと思うんだ。ちなみに鉄器時代と青銅器時代の境目は動かない。どのみちヒッタイトが崩壊するまでは鉄器製造技術は限られた地域で厳重に隠されていて、鉄器は一般に広まらなかったから。

あと、鉄の製造が「ヒッタイト帝国時代から始まった」というのは、そもそも定説ではないらしい。
ヒッタイト古王国時代の層からも鉄製品が出ていたが、製造の証拠である鉄滓や炉が見つからなかったので、はっきりとは言えなかった、ということのようだ。


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なお、先に挙げた年表は、カマン・カレホユック遺跡のもので、他の遺跡でも同じとは限らない。ここに注意。

どういうことかというと、ある一つの時代が終わるとき、その終焉は全ての地域に等しく訪れるものではないからだ。焦土層=戦争の跡は、戦争があった地域でしか見られないし、青銅器時代に人が住んだ痕跡は、当然ながら青銅器時代に人が住んでいた地域にしか見られない。たとえば、明治時代に人が住んでいて、昭和の時代は無人、平成になって再開発された地域があったとすれば、その地域の土地の歴史は「昭和」が白紙になるはずだ。

オスマン時代の始まりが100年遅れる遺跡だってあるかもしれない。場合によっては、オスマンが来なかった町だって…。

だから、紀元前2100年~1950年という年代よりも、その年代が「カマン・カレホユック遺跡では」プロト・ヒッタイト時代に該当する、という断り書きが、厳密には必要なんじゃないかと思う。


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なお、今回の情報は、「アナトリア発掘記 ~カマン・カレホユック遺跡の二十年」(NHKブックス)から仕入れてきた。
通販で手に入れたこの本、

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サイン入りでした・・・・・。


近しい人に差し上げたサイン本が古本で流通しちゃったぽい。えー、なんか申し訳ない気分になりつつ大事に読ませていただきます、先生。


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文字制限にブチ当たりそうなので、続きは別エントリでいくよー!