日本初のエジプト発掘調査隊…

まだやってたのか。と言われそうですが。
Wikipediaの「吉村作治」の項目の、これが気になっていたので調べていました。何かが見えてきたような気が。

1974年 ルクソールのマルカタ南にある「魚の丘」遺跡において彩色階段を発見し、考古学界に名を表す。


まだワセダ・ハウスが建つ前の第一次調査の話だと思うんだけど、これって川村喜一先生が発見者じゃないの?――

恩師の手柄まで横取りしたのかこの人は。と思って当時の状況が書かれた記事を引っ張り出して見ていたのですが、この発掘調査の提案者が吉村氏なんですね。川村先生に「隊長になってくれ」とお願いしたんだそうで。
そして、許可が下りた場所が「魚の丘」だったのでそこを掘っていたら出てきたと。

参加者リストは以下のようになっていました。(敬称略)

中島健一(地理学)、桜井清彦(考古学)、川村喜一(考古学・隊長)、稲葉和也(建築史)、吉村作治(美術考古学・マネジャー)、内藤良夫・山本暉久(考古学)

んでマルカタの彩色階段が見つかった第三次調査の参加者は以下。

平田寛(調査委員会委員長・古代科学技術史)、小片保(新潟大学教授・人類学)、桜井清彦(考古学)、川村喜一(隊長・考古学)、稲葉和也(建築史)、菊池徹夫(考古学)、吉村作治(美術考古学・マネジャー)、西連寺健(考古学)、川床睦夫(アフリカ史・アラビア語)、大村幸弘(考古学)

川村先生の吉村氏に対する評価は高く、「発掘の成否を左右するマネージャーの仕事において優秀だった」と記録されていました。現地人となじみやすく、うまく人を指揮していたみたいですね。何十年か後には、その才能が広告塔として役に立つことになるのですが…

といいますか、某所の掲示板に「吉村さんは発掘では評価されているけど理論はバカにされまくっていた」って投下していたの、あれ関係者だったんですね^^; 
発掘で評価されても学者としては評価が低い、って、やっと意味が分かった。発掘マネージャーとして優秀だったが、論文はさっぱりだったということか。


この発掘調査自体、吉村氏が提案したもので、現地でも発見に貢献したとあれば、そりゃもちろん無関係ではないです。この発見と、この時の丁寧な日本隊の調査で、日本人の考古学者の評価が高くなったのは分かります。
でも、ただのマネージャーが発見者名乗っちゃダメなんじゃないの。普通は隊長かチーム全体の手柄になると思うんですが、そこんとこどうなんですか発掘に参加したほかの方。


それと、吉村氏、専門は美術考古学だったんだと知りました。

「マルカタ王宮の研究」(早稲田大学古代エジプト建築調査隊 編/中央公論美術出版)という発掘記録の集大成的な本があるのですが、その中で吉村氏が書いてるのが最後のほうにある彩色画片についての考察の部分で、「何でよりにもよってここなんだろう」と不思議に思っていたのですが、美術考古学が専門だったなら納得。

そういえば、吉村ゼミでアマルナ時代の青色染料の成分を分析してよみがえらせる研究してたっけ、と思い出し、話がつながってきました。

 つまり… あれか、 …テレビや著書で自爆している部分は、専門外…?

美術考古学の人が通常どの程度知っているものなのかが分からんのですが。
美術品の鑑定が出来ればコトたりるとか、そんなわけはないですよね。


川村氏は、発掘隊は貧乏だったと書いておられる(*)けれど、そこにあまり恨みがましさは感じない。むしろ日本企業から受けた支援への感謝や、大学からの出資でなんとか足りる、ということへの、つつましい喜びが綴られていました。

紀要に出す文章にまで「金がたりない、金があれば」と書いてる吉村氏は、何か、恩師から大事なものを受け取りそこねてるんじゃないのか…。
このあたりは個人的な寸感なので、今のところそのように見える、というだけですが。

しかし、なんとなく早大発掘隊と吉村氏の関係が見えた…気がします。
第一次発掘隊に居て、そもそもの発掘発起者だとすれば、多少アレなことをやらかしても切るに切れないですよね。(学術世界は違うかもしれませんが、民間企業的な発想だと、そうなる)


まあ、もう、このへんは単なる好奇心と、自分の振り上げた拳の落としどころを探しているだけなので、余計なエントリではあります。少なくとも、初期の発揮隊の人たちが何を思い、何を見てきたのかを知ることは、私にとっても有意義です。

そのうち東京に来たら、早大発掘隊の歴史40年展にでも行ってきますか。



*ファラオの階段―マルカタ遺跡の発掘 (1979年)