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zoom RSS ブルガリア/上トラキアの発掘調査の講演会に紛れ込んでみた

<<   作成日時 : 2018/02/15 00:10   >>

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三連休の予定が急遽変更になったので、 「デャドヴォ遺跡(ブルガリア)の発掘調査 −5000年前の集落を探る−」という講演会に紛れ込んできた。

ブルガリアはまだあまり手を出していない地方だが、ブルガリア発掘の講演会を聞きに行くのは二回目で、前回は以下の「黄金のトラキア文明」の講演会である。「トラキアとは何ぞや」という話も以下にメモしておいた。
http://55096962.at.webry.info/201506/article_21.html

ブルガリアというとどこにあるかよくわからんという話もありそうだが、ギリシャとトルコのすぐ北で覚えておくと判りやすい。今回の講演会で「上トラキア」という言葉が使われていたが、これはトラキア平原が南のギリシャとトルコにもまたがっているところから来ている。

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日本の東海大学隊は、この平原にある、「デャドヴォ」という村を1985年から約25年にわたり発掘し続けてきたという。デャドヴォという変わった名前は、トルコ語の「おじいさんの村」という言葉をブルガリア語に直したものだそうだ。この遺跡は、銅石器時代(紀元前4400年頃)から中世(12世紀)まで居住され、現在は誰も住んでいないが遺跡の周囲は畑になっている。

なお、この研究は科研費で補助金がついているので、ググると真っ先に報告書のページが出てくる。

ブルガリア・デャドヴォ遺跡の資料分析を通して見る青銅器時代開始期の背景
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-22320163/

ここについている成果報告書に、研究目的は以下のように書かれている。

"ブルガリアにおける青銅器時代文化は、それ以前の銅石器時代文化とは系統を異にする異質の文化であり、その開始にあたっては北方遊牧諸集団の関与を認めようとする説(いわゆる「民族移動論」)が提唱されている。この説を成り立たせるためには銅石器時代(特に後期)と青銅器時代の文化内容を具体的な一遺跡での層位資料に基づいて明らかにし、それぞれの文化の性格を評価する必要があった。"


つまり一番調べたいのは、銅石器時代から青銅器時代への変遷のようである。
残念ながら、まだ青銅器時代の部分は発掘が終えられていないようなのだが、およそ1000年ほど人が住んでいなかった時期があり、それがちょうど前期青銅器時代に入るあたりのようだ。以下にあるべつの研究を見てみると、どうやらトラキア平原のほかの遺跡でも、同時期に人が住んでいなかった長い時代(移行期と呼ばれている)が存在するようだ。ただ、それが何故起きたのかが今のところよく分からないらしい。

ブルガリア・トラキア地方における前期青銅器時代エゼロ文化の系譜と成立−主に土器装飾を手がかりにして−
http://jswaa.org/jswaa/JWAA_11_2010_001-021.pdf

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※エゼロ村は今回の講演にも出てきた。距離的にはすぐ近くで、デャドヴォよりは少し裕福な村だったらしい

謎を解くには小さな証拠を積み重ねていくしかないのは、どのジャンルもだいたい一緒である。青銅器時代へと時代が切り替わる時、なぜ人がとつぜん消え、1000年近く経ってからまた戻って来たのかは、ひとつひとつの遺構をその時代まで掘り下げてみるしかないのだろう。

講演会では、黒海の北からヤムナヤ文化(インド・ヨーロッパ語族)と金属器の技術が伝来したのでは、という可能性が述べられていた。ヤムナヤ文化はクルガンと呼ばれる墳丘墓を作る文化で、東方へ金属を精製する技術を伝えていったとされている。この文化は製鉄技術の伝播の歴史を調べていた時にも出てきた。ブルガリアだとコーカサス山脈を越えるより黒海の南からマルマラ海峡を越えてくるほうが近そうなのに、わざわざ北周りしてくるのがちょっと謎でもある…。



さて、講演会ではこれまでの約25年間の成果をかいつまんで報告してくれていたのだが、なかなか面白いなと思ったのはブルガリアにおける「トラキア人」が国家アイデンティティに使われている/いた、という事実である。

デャドヴォ遺跡の発掘の歴史は、こうなっている。

1898年 チェコ人シェコルピル兄弟による「モギーリ(丘)」という本で知られるように
1977年 「トラキア民族の起源と形成」ブルガリアxオランダ隊(プロパガンダへの利用)
1984年 日本隊(東海大学)が参加
------------------------------------ここまで社会主義国
1991年 オランダ隊が離脱

そういやブルガリアって近代まで赤色組でしたったけ、などと、年表を見て思い出した。ヘロドトスが「歴史」にも書いた、偉大なる民族「トラキア人」こそブルガリア人の祖先! とかいうのは、まぁ、言ってみたくなる気持ちは判る。たぶん完全に間違いでもないだろうし…。(実際は色んな民族があとから混じってるはずだけど…。)


それから、この辺りの遺跡では家を作るのに日干レンガは使わないということ。
柱をたてて、ソダを編みこんだ壁を張って、その上から粘土を塗りつけて家の壁にする。昔の日本でもよくあった土塗り壁の家だ。壁がとても薄いので、屋根もおそらく軽い植物性だっただろう、という。

日干レンガではないので遺構が残り難く、各時代の層もとても薄いという。遺跡は40cmくらいで約1千年の層が含まれるという。掘るのに時間がかかりそうだ…。

この遺跡は集落の積み重なったもので、お墓はないという。おそらく村の外のどこかに墓があったのだろうが見つかっていないようだ。出てくるものは土器の破片や家畜の骨、麦をすりつぶす石器など。豪華な品の出てこない、つつましやかな村の暮らしが見えてくる。

その意味では地味めの発表だったのだが、近隣の村との交易関係や、西アジアとはだいぶ違う集落の作り方など、興味深い内容だった。歴史の本で扱われるブルガリアはトラキア人が活躍しはじめるあたりからだが、実際はそれ以前から人が活動しているわけで、トラキア人が入って来る以前はどうだったのか、その人たちが空白の時代にどうしていたのかは自分も知りたくなった。

発掘調査は今は中断中だが、再開を目指しているという。再開後いつかまた、続きの話を聞いてみたい。

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