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zoom RSS 血みどろアステカ宗教に対する日本人の解釈。「アステカ王国の生贄の祭祀」

<<   作成日時 : 2016/09/24 00:10   >>

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これなかなか面白かったので、「アステカって血みどろだしイケニエでしょぉ」みたいな古い概念のまま止まってる人にオススメ。「血と黄金の文明」みたいなレッテル、いい加減もう乗り越えていいんじゃないかと思うんだよね。



この本の主題は明確、「若い頃アステカ文明に触れたけどよくわかんなかった。既存の解説書は満足させてくれなかった。だから自分で解釈して書いた(`・ω・´)」

つまり著者によるアステカ文明の解釈、なぜ彼らが生贄を捧げ続け、戦いに明け暮れたかの回答集なのだが、これがズバっとしていて面白い。正解か正解でないかとかを論じるのはあまり意味がない。ある文明に対する解釈は、解釈する人によるものだ。重要なのは、キリスト教世界に生きるヨーロッパや北アメリカの人間ではなく、多宗教が当たり前、アステカの宗教に近い森羅万象への信仰が自然に理解できる日本人からの見解であるというところだと思う。

ぶっちゃけ自分も、アステカ人の感覚は「よくわからん」中で、この本の解釈はなるほど一理あると納得できたものだった。
キーワードはタイトルにもある「血、花、笑、戦」である。



よく知られているとおり、アステカは生贄大好きの文化である。
実際の祭儀でも、血を流し、人を殺して生贄とする内容が多く知られている。それゆえ血なまぐさくて野蛮、あるいは神秘的で陰惨な文明だと思われがちなのだが、そうじゃないんだと著者は言う。

血を流すのは人間だけではなく、神々も、である。
天地、太陽、月など、神々は自らの血を流して人を養ってくれている。そもそも人間自体が神の血によって作られたものである。だから人は神に血を返さねばならない。一方的に神の血を受け取るばかりで略取し続ければ、世界はいずれ滅びてしまう。

これがアステカ人の世界観ではないかというのだ。

森羅万象が神となるアステカの宗教では、言い換えれば神は世界そのものだ。世界が人に与えたぶん、人は世界に還元しなくてはならない。世界との共存の哲学である。つまり自然世界と人との絆を確かめ合う儀式が「生贄」という形で表現されているのだ。これはなるほどと思った。日本ではそれを人形とかコメや酒捧げるとかの形でやるのだが、アステカの場合は「血」は「血」で贖うという、より直接的な考え方になるわけだ。



ここらへんは、もう一冊、「パンとワインが巡り 宗教が巡る」という本をあわせて読むと理解しやすいと思う。



人は生きるために殺さねばならない存在である。「殺すヒト」であることを意識するための儀式が動物供養。アステカの場合は、ヒトの贖うべき世界からの恩を動物に置き換えることをしなかった文明ということになる。根本にある考え方は同じだ。皆で生きたものの血を流し、他者の命を犠牲として生きている罪を共同体全体で背負うのだから。


戦争にまつわる考え方も面白かった。「笑う」ということ。生命力の躍動。花が咲くこと、笑うことは、アステカにおいては生命の象徴である。花が咲くように、笑いながら戦って血を流すとき、戦士たちは神々の行った創造を再現していることになる。戦争がなく、血を流さず、誰も笑わなくても世界は回る。しかしそれは死んでいるのと同じことになる。生きていることを実感し、世界に活力を与えるために、戦士たちは戦い続けなくてはならなかった―――これは、現代においてはスポーツに置き換わっている概念だろうと思う。ローマのコロッセオで行われたことと、アステカの儀式的な戦争の間には、根本において違いは無いのかもしれない。


異種な文明に触れるとき、現代に生きる自分を正常なものとみなし、相手を理解し難い異常なものと看做していては絶対に本質を理解することは出来ない。当たり前のことである。けれどそれが出来ている本は確かに少ないと思う。

相手も人間である以上、理解出来ないなんてことは決してない。異常に見えることも、理解するロジックはある。この本のロジックもその一つだ。正しい正しくない、ではなく、かつてそこに生きたアステカ人と時を越えて語り合うための一つの方法だと思って欲しい。笑いながら心臓を捧げるイケニエの祭壇に登るアステカの若者を見ながら、あいつは頭がおかしいと思うのではなく、彼がなぜ笑っているのかを理解するための方法なのだと。

こういう解釈本は、もっと沢山出てもいいと思う。

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