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zoom RSS インターネット時代の神話伝承、「保育園落ちたの私だ」に見る民族的フォークロア形成プロセスについて

<<   作成日時 : 2016/03/16 00:10   >>

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まぁ時事ネタっちゃ時事ネタなんだけど、保育園のシステムとか子育ての話とかを論ずるつもりはないんである。
最近騒がれているコレ、元は一人の人の体験談から始まっている。しかしそれが拡散するうちに

 「私も同じような体験をした」
 「私も苦労している」

と、共感する人が多数あらわれる事態となった。
そのうち何故か

 「私に子供はいないが保育園落ちたのは私だ」

などというわけのわからない共感のしかたをする人まで出てきて、大層叩かれたりしていたのだが…、実はこれ、興味深いことに 民族的フォークロアの形成プロセスと同じ なんである。



たとえば日本人なら誰でも知っている、ヒロシマ・ナガサキの話。
ヒロシマ・ナガサキといえば原爆であり、我々日本人はみな原爆被害者なのだ、と思い込んでいるだろう。原爆を落とされた日にはみな犠牲になった家族やご先祖のために黙祷を捧げる。

しかし、である。

考えてみて欲しい。原爆が落とされたのは「ヒロシマ」と「ナガサキ」なのだ。それ以外のところに住んでいた人は、直接的な被害には遭っていない。 原爆被害者は存在するが、それは当時、ヒロシマやナガサキに居た人々であり、全ての日本人ではない。自分の家族やご先祖に原爆被害者がいる人は、どれだけいるだろうか? 実際は、全く関係ない人だって多い。

にもかかわらず、世の中は「全ての日本人が原爆被害者」として動いている。ほとんどの人は、それが「自分を含む我々」の体験であることを疑わない。



これが神話になるとどうだろう。

旧約聖書におけるモーセの「出エジプト」。多数の人間がエジプトを脱出したという考古学的ナ証拠は一切存在しない。またエジプト側の史料にも、近隣の国にも、そのような話は残っていない。あるのは神話だけである。
モーセに率いられて脱出した"少人数"の集団は、もしかしたら実在したのかもしれない。しかし、それは決して大多数の人間ではなかった。エジプトを出るときに奇蹟が起きたんだ、という語りが、いつしか彼らと合流したほかの集団にも広まって、「我々」の体験へと変化していったのだ。

「虐殺」の記憶、「奇蹟」の記憶、「祝福」の記憶、「喪失」の記憶…

海に沈んだ国の元ネタがひとつの町の水没であるようなもので、キッカケはある個人または少人数の体験であっても、それが繰り返し語られてゆくうちに「多くの人々」の共通体験として刷り込まれ、事実として認められてゆく。これが神話・伝承の成立過程である。

フランスでイスラム原理主義者により、風刺新聞社「シャルリー・エブド」が襲撃されたときに起きていた「私はシャルリー」現象を思い出してほしい。襲撃された新聞社とは全く関係ない人々までもがこのフレーズを掲げ、新聞社の襲撃事件は瞬く間に"フランス人である我々への攻撃"へと変容していったのだ。


保育園に落ちたのが誰だったのか、本当は落ちていないのに共感をもっている人がいるとかいないとか、そんなことは割りとどうでもいい。共感と連帯感、それが"世間的な事実"を生み出すファクターとなるのだということは、はるかな古えの時代より変わらない法則なのである。そして、多くの人々が無作為に繋がるインターネット時代には、かつて形成に数十年かかっていたような民族的フォークロアでも、わずか数週間で作り上げることが出来るのだと知る。


我々は今、ひとつの神話――"現代日本は子育てしづらい、全ての母たちが苦労している"という一連の神話群―― の形成をリアルタイムで目の当たりにしている。是非だれかこれを研究して「インターネット時代の神話伝承の作り方」とか論文にしてくれないかな(笑) わりとマジで。

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