現在位置を確認します。

アクセスカウンタ

zoom RSS 考古学視点からの日本の農業の歴史を遡る。「二粒の籾(もみ)」を読んでみた

<<   作成日時 : 2016/01/28 00:10   >>

トラックバック 0 / コメント 0

「日本では弥生時代から稲作をやってた」と予言した森本六爾という人は、日本の考古学会ではとても有名な人なのだという。
私など日本の考古学の歴史はいまいち分かっていないから、濱田耕作くらいは分かるがこの人のことは知らなかった。しかし日本の農業の歴史を辿っていくと、最初に出てくるのがこの人の名前らしいのである。

というわけで、ちょっと時代を遡ってきた。


スタートはやはりモースからだ。
日本における考古学の始まりは1877年のモースの大森貝塚発掘だという。
それまでは考古学という学問ジャンルがなくて、日本の歴史は文字のある時代までしか遡れていなかった、石器時代やら青銅器時代やらといった、今では当たり前な時代の区分も、この時ようやく概念として輸入された。

縄文時代を縄文時代としたのもモースで、英語からの訳語を作ったのが白井光太郎。

弥生時代の発見はそのあとで、1884年(明治17年)。弥生時代という名称が正式になるのは1898年ごろから。

森本六爾が「日本原始農業」を出すのが1933年(昭和8年)。

奈良の唐古池の浚渫が行われ、弥生時代の遺跡とともに稲作の証拠が出てきたのが1936年(昭和11年)。

関東ローム層が処女地ではなく、その下にも人の生活の痕跡があることを証明したのは相沢忠洋で1949年(昭和24年)のことになる。



まず森本六爾が言うまで弥生時代に稲作があったこと自体知られてなかったわけだが、そもそもモースが来るまでは考古学というジャンル自体なくて、縄文も弥生もなかったのだからしょうがない。で、弥生に農業やってたことがまず確定し、それより以前の縄文時代にも農業があったことが徐々に明らかになっていったという感じ。

まとめると、だいたいこんな感じの流れだろうか。


(1)弥生時代にもう水田があったよ(森本六爾の「日本原始農業」)

(2)稲作じゃないかもしれないけど、縄文時代にも農業はあったよ(稲作以前)

(3)水田じゃなく陸稲だけど縄文時代にも稲作はあったよ ←今ココ


(1)が昭和10年代、(2)が昭和50年代、(3)が平成。
平成の世になると、土壌中の花粉の分析とか植物のDNA調査とか出来るようになってるので、目に見える証拠がなくても証明可能になっているのだ。

で、冒頭の森本六爾に戻る。
本人の書いたものはあまり残っていない。弟子の藤森栄一という人が書いた思い出の随筆みたいなのが「二粒の籾」という本。

二粒の籾 (1967年)
河出書房
藤森 栄一

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 二粒の籾 (1967年) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル


ただ、この本だけ読んでも、何をした人なのかさっぱり分からない。
完全に思い出本であり、森本六爾の実家を探しに行くところから始まってたりする。そして文中からは昭和どころか大正の香りがする。何しろお題の森本六爾が亡くなったのが昭和11年なわけだから。

この人は関東ローム層から石器を発見した相沢忠洋と同じで在野のアマチュア考古学者である。学歴はさほどでもない。「考古学」という雑誌(今でいう同人誌のようなもの)を出してはいたが、赤字。しかも奥さんの収入をアテにしていたようなところもありちょっと…人間的には、まあうん、な感じではある。しかし文字通り命をかけて考古学道を突き進んだ。
弟子の人の本を読む限り、宮沢賢治とかに似てる雰囲気かもしれない。


しかしどうにも疑問なのは、「考古学ってそんなに命かけてやる学問だったっけ…?」というところだ。
いや、何をするにしても命がけになるほど一生懸命な道があることは知っている。でも、危険な場所で発掘を続けるとかならともかく…食費を切り詰めて雑誌を発刊し続けるというのも…うーん。考古学を学ぶのにわざわざパリに行く意味もよく分からない。

もしかしたら、この人が生きていた時代は「命がけ」にならないとやりたいことが出来なかったのかもしれない。
アマチュアだから自分で考古学会を作って同志をつのる。言いたいことを発表する場がないから雑誌も創刊する。官費が使えないから個人の稼ぎで留学してみる。

もうちょっと効率的にやる方法はあっただろうな、とか、何も生き急ぐことはなく、収入を安定させてからやっても良かったんじゃないかな、とかも思うが、それが出来ない性格だったのだろうか。たぶん今の時代ならもっと楽に生きられるんだろうな。何しろネットでポチっと意見表明も同士をつのるのも出来ちゃう時代だから。




さて、日本の考古学の歴史を辿っていくと、何人もの有名なアマチュア考古学者や一般人の名前が登場する。
道端で土器を見つけたとか、畑から金印を見つけたとか、そういう人たちに支えられて発展してきた学問なのだということが分かる。

藤森栄一の本のタイトルにある「二粒の籾」とは、森本六爾が言った以下の言葉から来ているという。

 「一粒の籾、もし地にこぼれおちたらば、遂にただ一粒の籾に終わらないであろう。」

二粒の籾とは、研究に一生涯を捧げた六爾と、それを賢明に支えて共に亡くなった奥さんを指している。芽が出て穂を出し実を結べばたくさんの種が生まれてくる。しかし穂を出して実を結ばなかった者が無駄であったとは思えない。学問の世界に降り立つとき、その土壌には、先人たちの芽生え、枯れていった血肉が溶けていると理解すべきなのかもしれない。

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

考古学視点からの日本の農業の歴史を遡る。「二粒の籾(もみ)」を読んでみた 現在位置を確認します。/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる