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zoom RSS 年表で見るローマの東地中海覇権までの道 ローマは実は徳川家康タイプだった…?

<<   作成日時 : 2015/12/03 00:10   >>

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ギリシャ・ローマ史を読んでてちょっとよく分からんのが、「ギリシャっていつローマに飲まれたんやっけ?」というところ。なんかアレキサンダー死んだあと、気が付いたらローマになってたんだよねww みたいな感じなんである。

で、ローマが東地中海を「ローマの海」と呼ぶようになるまでの間も、歴史の本だとわりとすっ飛ばされててよく分からん。その最終段階が紀元前30年のエジプト属州化なのはまぁ分かってるんだけど、その前ってどうなってたんだっけ。


というわけで、そのへんまとめて年表にしてみたドン。
シリアとか入れる余裕なかったんで、とりあえず「ローマ」「ギリシャ」「エジプト」の三列で。それでもだいぶデカい表になってしまってるんだが。。

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まずザックリと概要。
ギリシャはもともと都市国家で、各都市ごとに若干政策や性格が違っていたりするのだが、ペルシア帝国が勢力を拡大してくるのに対抗しようとして「同盟」を形成する。それがデロス同盟で、以降アテネがギリシャ世界の長として君臨することになる。

これに対抗したのがスパルタ。前404年の戦いでアテネがスパルタに屈したことからギリシャ世界の長はスパルタへと移る。しかしスパルタは純血主義が祟ったのか次第に衰えてゆき、やがてフィリッポス2世を擁するマケドニアに飲み込まれてゆく。

マケドニアは、次代アレキサンダーの時代に宿敵だったペルシャを滅ぼし、世界帝国を築くことになる。しかしそれも長くは続かず、大王アレキサンダーの急死後は数十年続く後継者(ディアドコイ)戦争へと突入していく。アレキサンダーというカリスマを失ったギリシャは分裂していくさだめにあった。


年表で比較するとよく分かるのだが、ローマが力をつけてきた時代は、実はこのディアドコイ戦争真っ最中なんである。

ギリシャ人たちがロクでもない戦争に明け暮れていた頃、年表ではほとんど空白なのだが、ローマ人はギリシャの多くを吸収し、政治と経済を安定させていた。(それがなければ大規模かつ長期の遠征戦など行えない)

イタリア半島統一からカルタゴを滅ぼすまでの期間はごく僅かだ。そして、再び力をつけたペルシャが攻めてきたときギリシャがボコボコにされているのを横から見ていて、衰えたマケドニアを叩いてギリシャの吸収を完了、残党も一掃する。実にうまいやり方だし、ギリシャは最後までギリシャさんだったな…(´・ω・`) という感じの展開である。




ローマは、ギリシャよりもエジプトよりも、遅れてきた文明である。
地中海世界には比較的遅く登場し、しかしながら、結局は前にあったすべてを吸収した。全盛期のギリシャには挑まず、文明を学び、じっくり力をつけて、相手が衰えたところをもう一方のライバル・カルタゴとともに一気に叩き潰している。

このやりかたは、なんとなく日本史でいうところの徳川家康じゃないかと思う。ローマは、野心を持ちつつもホトトギスが鳴くまで待った。そして東地中海の覇者となった。



つか、ぶっちゃけエジプトのプトレマイオス朝も、王家のお家騒動につけこまれてローマを頼らざるを得ない状況になったのが、後にローマに併合されるキッカケになっているわけで、やはり内輪もめというのが一番国力を削ぐんだよなーと思った。ギリシャにしろペルシアにしろエジプトにしろ、王権争いによって国を滅ぼしたようなものだ。後々にはローマ自身もそうなってしまうのは、皮肉としか言いようが無い。

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