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zoom RSS SF哲学小説「ニルヤの島」を読んでみた

<<   作成日時 : 2015/01/28 00:10   >>

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国際線の飛行機乗るのになんかいい本kindleでねーかな… と探していたら新刊にあったので、買ってって読んで見た。著者の名前が面白かったからとかいう説もある。

ニルヤの島 (ハヤカワSFシリーズJコレクション)
早川書房
柴田 勝家

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あらすじ

生体受像の技術により生活のすべてを記録しいつでも己の人生を叙述できるようになった人類は、宗教や死後の世界という概念を否定していた。唯一死後の世界の概念が現存する地域であるミクロネシア経済連合体の、政治集会に招かれた文化人類学者イリアス・ノヴァクは、浜辺で死出の旅のためのカヌーを独り造り続ける老人と出会う。



全般的な読後感は、可もなく不可もなく。といった感じ。SFといいながら、あまりSFチックな部分はなく、「ひどく感傷に満ちた作品」というのが私が最初に思ったことだった。村上龍の「悲しき熱帯」を読んだ時の読後感に少し似ている。

物語は、複数の主人公が異なる時間軸のストーリーを織り成していく群像劇となっている。
主人公はイリアス以外にも複数いて、おそらく本当の意味での「主人公」(=作者の投影)は、イリアスのガイド役を務める日系人の青年だと思う。あまりに感傷に満ちて、自分の思いを言葉にすら出来ない青年の裏に、彼と同じく死後の世界を求めながら信じられない、誰かの姿が見え隠れする。全編を通して、物語の中で語られ続けるのは「迷い」と「救済」だ。

世界観のアイデアはとても斬新で面白い。オセアニアやミクロネシアあたりの町の描写はなかなかだった。そして、感傷に満ちた"空気"の醸造には成功していると思う。最初のセクションにハマれた人なら、そのまま読み進められるだろう。逆に、最初の時点で「?? 何いってんのこいつ」と思った人は、先に進んでも苦行にしかならないと思う。

それは、時間軸が前後しすぎるためかいまひとつとっつきにくい構成になっているせいだ。そして登場人物の大半に名前がない。抽象的な描写、「空気よめ」的な行間が非常に多い。
また、多くの人物ごとに展開されている物語の落としどころが中盤を過ぎても全く見えず、クライマックスに向けてそれぞれの物語が絡み合っていくカタストロフィも薄かった。

私の場合は、読み始めて1/10くらいのところで、なんとなく「ああ、この記憶の混線描写どっかで見たことあるな…実はイリアスってxxなんじゃ?」と気がついてしまったのがイタかったかな…。途中まで読んだ後、乗り継ぎ中にあらすじを脳内で反復してしまったせいだ。推理小説でうっかり伏線に気づいてしまったようなもので、もう最後まで犯人を犯人として読んでいくしかない状況に等しかった(笑) ネタバレは避けたいので詳しくは書かないが、物語の時間軸がどこから始まっているのかを考えてはいけない。これは、一気に読まないと醒める類の小説だろう。



*****

あらすじにもあるとおり、この小説のキーワードは「死後の世界」="ニルヤの島"だ。
死後の世界が否定されたという設定の世界で、それでも人々は死後の世界を求め。新たな神話として海の向こうにある"ニルヤの島"を想定する。そしていつしか、そこへ向かおうと考え始める…。

哲学SFと書いたのはこの概念のせいで、登場人物はひたすら、この「死後の世界」の有りや無しやを考え続ける。

自分が「可もなく、不可もなく」と感じたのは、この思考プロセスが「迷い」と「救済」だけで、「悟り」のプロセスが無かったせいだと思う。だから誰一人、本当の意味では救われていない。何も答えも結論も出ていない。登場人物たちは成り行きに任せただけである。誰かの人生は終わったかもしれないが、物語としては完結しなかったのだ。最後に残る"本来の主人公"と思しき人物が著者の投影であるならば、物語を書いた人は今も迷っているのではないかという気がする。

だが、くりかえし語られる「死後の世界の喪失」を、私は、自分のものとして感じられない。
なぜならそれは、科学の世界で否定されようと、宗教の権威が「ない」といおうと、存在しえるものだと知っているからだ。たとえば科学は、「心」の存在を証明できない。今、我々の大半が「ある」と信じているだろう「心」なるもの、それは脳をどんなに解剖しても見つけることはできない。

心は現象である。しかし、脳内を走る微電流は心の実体とは言えず、その微電流の全てが意識に直結しているわけではない。「ある」はずのものですら、明確に定義することが出来ない。なのに「ある」ことになっており、心理学や心理学者がいて、メンタルヘルスをやっている。

心理学を学び始めるとき、最初にそんな現実を教わってしまった者にとって、この世界は二重である。
「世界」というとき、その裏には、科学によって明確に定義された「客観的現実」の世界と、科学では定義できない「主観的現実」の世界がある。



好きなフレーズがある。

「赤いバラから発した波長700ナノメートル付近の光のパターンからは、"美しい"という知覚は決して生まれない。」

これの元ネタは、少々正統からは外れた心理学者の発言なのだが、科学の世界が証明できるのは、光の波長が目から入って水晶体を通して網膜の光受容細胞を刺激し、興奮がパルスに変換され(以下略)…という、物理的な反応でしかない。「赤いバラ」という知覚がどのように生じ、どうやって人はそれを「美しい」と感じているのかさえ証明できないのだ。

「死後の世界」も同じものだ。
「心」と同じで、証明は出来ない。しかし証明できないから無いことにするのなら、花を美しいと感じる「心」も存在しないことになる。だから「ある」ことになる。というか、あってほしいなら「ある」と思えばいい。他人が「ない」と言っても、自分には見えているのだからそれでいいじゃないかという話である。他人には自分の心の痛みは分からないし、哀しみを共有することは出来ない。それと同じ理屈だ。

「ある」と「ない」の境界線は、場所によっては、実はこんな感じで曖昧なものなのだ。

小説の世界には、「あると思えばあるし、ないと思えばない。どっちでもいいんじゃね?」という曖昧でテキトウなキャラクターが一人もいなかった。みんな、なにやらしかつめらしい顔をして考え込んでいる。それは真剣であるがゆえに面白く、しかし一歩引いてしまえば少し滑稽でもあり、ある意味では、誰も救われない"悲しい"世界だと思う。

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