現在位置を確認します。

アクセスカウンタ

zoom RSS メソポタミアでは神像があまり見つかっていないが、その理由とは

<<   作成日時 : 2014/10/25 00:10   >>

トラックバック 0 / コメント 0

最寄の図書館のエジプト本を全部読み終わってしまったので、メソポタミア本のとりかかった中の人。
まずここらへんから。

メソポタミアの神像―偶像と神殿祭儀 (角川叢書)
角川書店
松島 英子

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by メソポタミアの神像―偶像と神殿祭儀 (角川叢書) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル


神像のみに焦点を当て、それはどんなものだったのかを推測していく本。

メソポタミアは、実は神像がすごく少なくて、ご本尊扱いをされた「そのもの」は、現在に至るまで、おそらく1つも見つかっていなかったと思う。(かつて神像とされていたものも、ごく普通の人物像だったと結論付けられている) 我々の知る神サマの姿は、印章や粘土板に刻まれたもの、あるいは神殿の壁画や柱など石壁、柱などの彫刻で、「神像」ではない。これは、とんでもない数の神像が出土しているエジプトなんかと比べると、いささか不思議な感じがする。

だが、本を読んでみてなるほどと思った。
神像が残っていないのは、

・ベースが木製だったため腐敗して消滅した
・神像を財宝で飾りたてていたため、略奪の被害に逢った
・神像が都市の権威の象徴という役目を持っていたため、都市間の戦争で失われることが多かった
・神像の製作に王自らが関わるなど、個人が勝手に作れるものではなかったため絶対数が少なかった

といった理由からのようだ。
特に、エジプトと違ってベースが木だったというのは、意外だった。メソポタミア周辺でも良質な石材が手に入らないことは無かっただろうに、なんでわざわざ「いずれ朽ちる」もので永遠なる神の肉体を作ろうと思ったのか。


メソポタミアの人々は、神を人間の姿になぞらえて表現することから、半歩たりとも抜け出すことはなかった。彼らは熱心に神々の像を表現した。遅くとも前二千年紀の前半には、独立した神の像に衣装や装身具を飾り聖堂に安置する方式が定着していた、あるいは定着しつつあったと思われる。この頃から主要な都市の守護神とその妃神、そして高位の神々の像は、本体を高級な木材で作られ、肌を金で覆われ、衣装が着せられ装身具で飾られ、手には権威の象徴物を持たされていた。



この木材は、レバノン杉だったろうといわれている。あるいはアフリカかインドから持ち込まれた黒檀も使用されていたかもしれない。石ではなく木材でなければいけなかった理由はよく分からないが、日本の木製の仏像と同じような感覚で、「木じゃないと魂が吹き込まれない」とかいう思想があったのかも…。少なくとも、祭祀のやり方、神殿が神の家と位置づけられ、毎日の食事を供されるくだりなどは、エジプトと一緒だ。

ただ、衣装の扱いだけは少し違う。金で作ったびょうを山ほど使う、もはや鎧じゃないのかと言いたくなる様な衣装は、メソポタミアならではだ。現物が残っていないのでどんなものかは推測でしかないようだが、女神像がつけたという「クシートゥ」の衣装など、人間がまとったら重みで潰されそうな気がする。

エジプトの神像も、毎日神官によって衣装を変えられていたようだが、メソポタミアの神像のような豪華絢爛な特別な装束ではなかった。簡素な麻布。ツタンカーメン王墓から発見された神像は古代のまま手付かずで、発見当時はマントのような麻の衣装をまとっていた。

もっとも、エジプトの場合は王ですら衣装がわりとシンプルなので(暑いからゴージャスなの着れないもんね…)、人間の王が着る普段着の違いが、神像の衣装にも反映されているのかも。


という感じで、私はもっぱらエジプトとの違いを楽しんでしまったが、偶像崇拝を否定している宗教との類似点を指摘してみるのも面白いかもしれない。

メソポタミアの、神像が都市の権威の象徴であり、神像が失われると神もその都市を去るという思想は、教会が壊されると天使の加護が失われると思った中世ヨーロッパのキリスト教徒とも通じる。ぶっちゃけ神像を十字架とか聖異物とか聖人の像とかに置き換えると今のキリスト教まんまな気がする。まあなんだかんだ言って、偶像崇拝は分かりやすいし頼りやすい信仰システムだと思う。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

メソポタミアでは神像があまり見つかっていないが、その理由とは 現在位置を確認します。/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる