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zoom RSS 古代エジプトのテキストの中に旧約聖書にしか見えない部分を発見した。

<<   作成日時 : 2014/05/12 00:10   >>

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前後はおいといて、一部分だけ切り出してみる。

神の家畜である人間はよく管理されている。神は人間の望みに応じて天地を創造され、水に沈む怪物を追い払われた。かれらの鼻孔に生命の息吹きをつくり給うた。
神の体より現れた人間はその似姿なのだ。神はかれらの望みに応じて天に登り給い、かれらのために、その食物として草木、獣・鳥・魚をつくり給うた。敵を殺し、謀反を抱いたが故に、自らの子供らをも滅ぼし給うた。人間の望みに応じて、陽の光をつくり給い、かれらを見ようとして、天を航行し給う。



これが何かというと、「メリカラー王への教訓」というもの。
教訓文学というジャンルの中のひとつで、宰相、王、賢者などが後継者に向けて書き記した指針、という形態をとる説教集である。この「メリカラー王への教訓」は、メリカラー王に対し父王が述べる訓戒となっている。

*年表参照。
http://www.moonover.jp/bekkan/chorono/index-middle1.htm

メリカラー王の訓戒が書かれたのは、第十王朝の頃なので、紀元前2000年くらい。
メリカラーの父はケティ3世。


全体を読めば、「南(上エジプト)のティニス候とは仲良くしろ」とか、「他人の記念碑を再利用して自らの墓を築いてはならない」とか、「ナイルの増水のごとく敬うように」とか、いかにもエジプトな内容も沢山でてくるのだが、一部だけ切り取ると言い回しや概念が実に聖書の世界ライク。

もっとも、よくよく見ればエジプトのものには違いない。さきに引用した部分も、「天を航行したまう」=太陽神が太陽の船に乗って東から西へ移動することを指していたりするので、エジプト神話の概念である。

ただ、人間は神の似姿として創造されたとか、世界のあらゆるものは神の創造物で、「光」も創られたものであるとか(ここで言われている神はエジプトの太陽神なので当然なのだが…)いう概念、また神を敬わなかった人間を滅ぼしたという神罰の記述などは、旧約聖書に先立つものだと思う。




*****

「旧約聖書」はユダヤ教→キリスト教→イスラム教と受け継がれてゆくテキストだが、その実態は、メソポタミア・エジプトを含む「古代オリエント神話の集合体」だと思う。

「エデンの園」の「エデン」の元になったシュメル語「エディン」が空き地、荒地を意味する言葉で、エデンの園のイメージの元になっているのはシュメルの地名「グエディンナ」だというのはよく言われる。また大洪水の神話は元はシュメルの神話だったことも、楔形文字で記した洪水神話の石版によって証明されている。

旧約聖書の神話は、要素としてバラしていくと大抵、周辺の文化圏に似たようなものがみつかる。
イエスの復活、神によって身ごもる女性、バベルの塔etc...

「ミカエル」や「ラファエル」のような天使たちですら、「〜エル」という語尾から、元はメソポタミア近辺の文化圏の異教由来の神だった可能性が高い。

辿っていくとつくづく、旧約聖書は基本的に、神話エピソードやイメージ、思想のパーツなど根底にあるものは、周辺からの借り物だなあと思う。しかもその元は聖書が成立するはるか以前、紀元前2000年には既に、ほぼ完全に神学として理論化された状態で存在したことになる。旧約聖書オリジナルな部分はバビロン捕囚や出エジプトなど歴史に根ざした部分だけかもしれない。

旧約聖書で一つだけ特異なところは、他の文化圏では多数の神が演じていた役割をすべて一柱に統合してしまったところだ。これは、「世界最古の一神教」とも言われる、エジプト新王国時代のアテン信仰(短期間で消滅)を除けば、他の文化圏の神話では考えられなかった概念だ。ただし、一神教にしてしまったがゆえに旧約聖書の神は、「自ら滅ぼし、自ら救う」という奇妙な人格分裂を引き起こした。

たとえば洪水神話では、人を洪水によって滅ぼそうと決める神と、人を救うため洪水が起こることを人に告げる神は別々だ。この神話のあらすじをそのままに神を一柱にしてしまうと、「人を嫌い罰する神」と「人に好意的な救う神」が同じ神になるため、ともすればエコ贔屓や言動不一致とも見られかねないストーリーになってしまう。と、いうか、実際にそうなってしまっている。

よく、「聖書の神は悪魔より人を殺してる」とか言われるけれど、元の神話辿っていくと、殺す役の神と救う役の神が別々だったのを一緒くたに一人にまとめちゃってるのが原因だったりするんだよな…。
その意味では「聖書の神は悪魔より人を殺してる」というのは間違いではないんだけど、本来は「殺す役の神」の部分ではなく「救う役の神」の部分が強調されるべき部分なはずで、殺した数ではなく救った数で比較しなくてはならんのだと思う。

おそらく「聖書の神が救った数」は、「悪魔が救った数」よりはるかに多い…んじゃないかな。
というかエジプト神話でいうラー神のような神であれば、「存在すること自体が人のためになる」神だとすれば、生きてる人間すべてが恩恵をもらってることになるので、救われた数=地上に存在する人間の数になるのではないかとかなんとか。

*****

ちなみに冒頭に戻ると、ほかのエジプトの「教訓文学」も、旧約っぽい部分がチョクチョクあります。

隣人の家より盗むなかれ。
手近にあるものを勝手にわがものとするなかれ。
<中略>
隣人を攻撃するに善きことはなし。


汝の生ある限り、惜しみなく施せ。
穀倉より一度出たものは穀倉にもどるべからず。


宰相プタハヘテプの教訓

ただこのあたりだと、旧約というよりは新約っぽくもあり、新約というよりは世間一般の教訓っぽくもあり。

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