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help RSS 古典文学と「翻訳」について お読み物としての翻訳と、研究用としての翻訳の違い

<<   作成日時 : 2013/10/31 00:10   >>

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まずは小説の話からしたい。

海外ものの小説を読む場合、訳者が誰になるかと、その翻訳の腕前は、内容の面白さに大きく関わる問題だ。あるシリーズものを訳し直して出してみたら全然違う話になっていたとか、シリーズ半ばで訳者が変わったとたん全然おもしろくなくなって買うのをやめてしまったとかいう話はよく聞く。

分かりやすいところでいうと、英語の「I」は、日本語で言うと「私」「俺」「ぼく」「あたくし」などに訳せる。
ヤンキーもコンビニの店員も同僚も妻も、全員「私」で喋っては、物語の面白みがなくなる。というか登場人物の区別がつかない。

同じ英文から、「ああ、それはよかったですね」という日本語を作るか、「ああ、それはよござんしたね」という日本語を作るかで、喋り手キャラクターに対する印象は大きく変わるだろう。
小説における「翻訳」とは、だから、英文をきれいな日本語に直す機械的な作業ではなく、文章と全体の流れを理解して、日本語で物語を「作りなおす」作業なのだと、私は思っている。


しかし「作りなおしてはいけない」翻訳がある。
対訳版というやつだ。

言語そのものが研究・学習の対象になっていて、元の言語と和訳または英訳を左右か上下で分割して併記してある。古典文学によくあるパターンだ。この場合、きれいな日本語にしようとして、文章の前後が入れ替えてしまうと、どの単語とどの訳が対になるのかがわからなくなってしまう。

言語の研究のための訳は、すべての「I」を「私」と訳しても構わない。というか逆にそのほうが多分分かりやすい。無骨な訳でよい。言語自体が研究対象であれば、ある一つの文章をどう訳するか(意味をとるか)自体が重要なので、原文をなるべくシンプルに訳す必要がある。

目的が違うのだから、「お読み物」としての翻訳と、「研究用」としての翻訳は、おのずと違ったものになるはずだ。というか、違ってもらわないと困る。


例を挙げる。「ベーオウルフ」という古英語の作品だ。
この作品を選んだのは、元になるテキストが一種類しかない(亜種となる写本が存在しない)ため、世界中にあるすべての翻訳は大元がひとつだからと、日本語での対訳と大衆向け文庫版とが存在するからだ。


対訳(苅部・小山版) 1行目〜11行目まで

いかにも我らは、「槍の」デネの 過去における
国王たちの 栄光を伝え聞いた、
貴人らが 武勇の業をなした次第を。

しばしば、シュルド・シェーヴィングは 敵の軍勢から、
多くの部族から 酒宴の座を奪い取り、
武将たちを恐怖せしめた、初め孤児として
拾われて以来; 彼はそれゆえ慰めを得て、
天が下に力を増し、誉れ栄え、
ついに皆が彼に 近隣の者たちは
鯨の道を通って 服従し、
貢物を献じるようになった; それは立派な王であった!


行に忠実に日本語を構成している。
これが文庫版の、一般人むけお読み物になると、こうなる。


お読み物として(忍足訳)

いざ聞き給え、そのかみの槍の誉れ高きデネ人(びと)の勲(いさおし)、民の王たる人々の武名は、
貴人(あてびと)らが天晴れ勇武の振舞をなせし次第は、語り継がれてわれらが耳に及ぶところとなった。

シェーフの子シュルドは、初めに寄る辺なき身にて
見出されて後、しばしば敵の軍勢により、
数多の民より、蜜酒の席を奪い取り、
軍人(いくさびと)らの心胆を
寒からしめた。彼はやがてかつての不幸への慰めを見出した。
すなわち、天(あめ)が下に栄え、栄光に充ちて時めき、
遂には四隣のなべての民が
鯨(いさな)の泳ぐあたりを越えて彼に靡き、
貢を献ずるに至ったのである。げに優れたる君主ではあった。



一行目から三行目は、「我らは伝え聞いた」「貴人らが武勇の業をなした次第を」という英語文法の並びを日本語に置き換えて、「貴人らが武勇の振舞いをせし次第は」「我らが耳に及ぶところとなった」と、している。

四行目から六行目も、「シュルドは、初め寄る辺なき身(みなしご)として見出されて後〜」から始まるように入れ替え。

細かい言葉の選び方も、「恐怖させた」を「心胆寒からしめた」、「服従する」を「靡き」など、格調高い雰囲気の出る難しい日本語に入れ替えて、雰囲気が作られている。

お読み物翻訳に重要なのが、こういう、原文の文章の前後を変えたり、単語を選んだりして読みやすくし、かつ雰囲気を整える作業だ。それが出来ないと、翻訳者のいる意味が無い。物語として面白くするには、場合によっては、登場人物のキャラクターを自分で解釈して色付けもしてもらう必要がある。全員、一人称が「私」で、語尾が「です」では困る。

世の中に存在する「和訳」作品は、原文の作者のものであると同時に、翻訳者自身の「作品」でもある。
それは海外小説読みの間では、わりとみんな知ってる暗黙の了解だと思う。



ただ世の中には、「原文に忠実であること」こそが翻訳の価値を決めるものだと思っている人も一定数いる。ある程度原文を読めて、研究などしている人に多いのではないかと思う。

ものすごく面白く無い訳をしている小説に「翻訳がヘタだ」と評したところ、「訳はあってます」と怒られたことがある。原文を日本語に置き換える、という意味での正確さであれば、確かに翻訳はうまいのかもしれない。しかし、先述したとおり、「お読み物」としての翻訳に求められるのは、それとは異なる。お読み物の翻訳に求められるのは、物語を面白くできるか、雰囲気を作れるか、といった能力だ。

ちなみに、例として挙げた、ベーオウルフの文庫版のほうの訳者は、「ない単語を補ってもかまわない」というスタンスだったようだ。日本語として、あるいは物語として分かりやすくするために、存在しない言葉、補足としての文章を補っても構わないと。
例の中にある「鯨の道を通って服従し」が、「鯨の泳ぐあたりを越えて彼に靡き」になっているのなどは、細かい部分だろう。鯨の道といわれても日本人はピンとこないから、鯨がよく泳いでる海が近くにあるんだ、ということを示すために置き換えてくれている。それによって、物語の世界観が分かりやすくなっている。

ない単語は訳しちゃダメだとか、この単語にはこの日本語しか当てちゃダメだとか細かいことを気にしているようでは、この雰囲気は出せないだろう。「正しい訳」と、「名訳」は別物であることを、まずは伝えたい。というか、「正しい訳」は、必ずしも「名訳」ではない、むしろ正しく訳すと大抵意味がわからん内容になる、というのは、対訳版の読みづらさが既に証明していることと思う。


ちなみに翻訳に関しては訳者のセンスが出るものなので、人によって訳は全然違うのが普通だ。
同じお読み物としての文庫版でも、別の人が訳すとこうなる。


(厨川訳)

聞け! その昔(かみ)の、槍のデネたち、民草を統べ給ひし王の達の御稜威(みいつ)、さてはそのころ君達が武勲を樹て給ひけることのありさまは、語り傳へて我等が耳に達せり。
スゥーヴィングのスキュルドは累累仇なす者共、あまたの宗教より酒宴(うたげ)の席を奪ひき、武者共を怖れしめぬ。
されどその始めは寄辺なき者なりしなり。苦は酬われて天の下に彼は栄え、その誉は弥増し、やがて四隣の者共ことごとく鯨の路を越えて彼に従ひ貢を献ぜざるべからざるに到れり。雄々しき君なりけり。


だから、我々読み手には、訳者の好みというのが出てくる。みんながみんな、竹を割ったような似通った訳をしていたら、同じ物語の別訳を揃える人はいないだろう。訳者のセンスや好みが如実に現れるから、翻訳ものは原文とは別に楽しめる。

そしてまた、翻訳は原文の改変が許されるという暗黙の了解があるから、明らかな誤訳との区別が時には難しくなり、誤訳か誤訳でないかの論争にもなるのだと思っている。


#ちなみに指輪物語の翻訳論争は既にお腹いっぱいです
#まじでお腹いっぱいです…
#ベーオウルフあたりで勘弁してください(´・ω・`)

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