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zoom RSS 民族神なき国の近代 「ニーベルンゲンの歌」から始まる神話再生の試みとドイツ文学史

<<   作成日時 : 2013/06/07 00:10   >>

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ある2つのフレーズから、この話をはじめたい。

「ドイツ人は神をもたなかったのではない。神を失ったのだ」
「もともニイチェが彼の生涯の希望のように、日本に移り住むことが出来ていたら、悲劇的な発狂を避けえたのではないか。」

ドイツはキリスト教国だが、そもそもキリスト教はドイツ人にとっては他者の神である。
かつてドイツの祖先が生み出し、育んできた神は今やどこにも残っていない。そのことに絶望し、キリスト教の神ではない神を求めて発狂した哲学者ニーチェの考えていた"神"とは、おなじような理由から日本を目指し定住したアイルランド人、ラフカディオ・ハーンの求めていた「絶えず祈り続けなくとも罰を与えない神」と同じものではないのか、ということ。

現代において、神の存在を意識することは、あまりない。日本においては、我々は無信仰だとか無宗教だとかいう言がまかり通っている。しかし日本人は”神なき民族”ではない。渡来の仏教を受け入れつつも、自らとともに育まれてきた古来よりの神々と未だ同居し続けている。キリスト教化された国々とは違う。ただ日本古来の神々が、「絶えず祈り続けなくとも、そこにいてくれる」神だというだけだ。
神が存在自体無いことと、意識上に無いことは異なるのである。


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第二次世界大戦で、ドイツは日本の同盟国だった…という関係からか、日本ではドイツの古叙事詩に感心の高かった時代があったらしい。ドイツを代表する中世文学「ニーベルンゲンの歌」はその一つで、だからなのか資料本を遡っていくと昭和10年代以前のものが出てくることがある。「我が国の同盟国の気高き伝承」なんて書かれているのを見つけてしまうと、当時の時代背景を思わずにはいられない。
今でこそ、アーサー王伝説などのほうが知名度も高く人気作となっているが、かつてはドイツ叙事詩のほうが身近だったのではないか、と思う。

「ニーベルンゲンの歌」の物語のあらすじなどはここでは説明しない。よく勘違いされる内容としてワーグナーの歌劇「ニーベルングの指輪」のことだと思っている人がいるがそれとは時代も内容も全然違う。元になった本家が「歌」のほうだと、とりあえずは思っておけばだいたい合っている。

興味を持って手にとる人は、最初は戸惑うかもしれない。なにしろ現代人の慣れ親しんだ小説などとは、だいぶ形式が違っている。もともと詩人が弾き語りをしていた口伝を文章として起こしたものなので、原語では歌いやすいように強弱のある、韻を踏んだ四連の詩の形式になっている。日本語に直したときの独特の言い回しは、原文の雰囲気をなるたけ残そうとした努力の跡と言えるだろう。各章は「第○歌章」とタイトルがつけられている。ずいぶん長い歌だったんだな、と思うところだが、昔の琵琶法師がするように語りのイベントがあったのか、幾晩も続く大きな宴の余興として歌われていたのだろう。


その「ニーベルンゲンの歌」だが、ドイツを代表する”神話”として扱われた時期があった。物語の中には神の姿も神秘的なことも見当たらない。活躍するのは人間の英雄たちだけに見えるのだが、実は、物型のルーツを辿っていけば、起源には神話と呼べるものがある。

北欧神話の代表的な文字原典「エッダ」の中に、ニーベルンゲン伝説と呼ばれる一つの物語群がある。
異なる時代に語られた細部の異なる物語の断片なのだが、それらを繋ぎあわせて一つながりの物語として再構築したものが「ニーベルンゲンの歌」になる。もちろん互いに矛盾もある物語の断片をつないでいるわけだから、かなり大きな設定変更も加えられている。しかしメイン登場人物は同じであり、物語のたどり着くべき悲劇的な運命は変えられない。「ニーベルンゲンの歌」の中の英雄たちの幾ばくかは、元は神の血を引いている設定で、神々の意図と策略によって運命を決められていた存在だったのである。

しかしドイツが自国の神話として選んだのは、「エッダ」そのものではなく、「エッダ」の中に含まれるニーベルンゲン伝説でもなく、「ニーベルンゲンの歌」だった。

それは多分、「エッダ」が明らかに北欧神話、北の国のゲルマン民族の神話だったからだ。
同じルーツを持っていて、同じゲルマン民族系といっても、「エッダ」は「北欧神話」であって、ドイツの神話ではない。ドイツを経由した伝説は、北欧では「エッダ」の中に残ったが、ドイツそのものには残されていなかった。だから彼らはニーベルンゲン伝説だけを切り出して、――その中でも、ライン川の黄金や、ブルグント族の滅亡や、サクセン人の侵入といったドイツの香りで色付けされた「ニーベルンゲンの歌」をもって、ドイツの神話とせざるを得なかったのである。

しかし「ニーベルンゲンの歌」自体、いちどは忘れ去られて18世紀末になって再び掘り起こされたものであった。それまでに、ドイツは自らの血肉であった古来の神々を完全に喪失してしまっていた。吉村貞司は、「近世ドイツは民族神喪失の廃墟の上に立っている」と評している。「ニーベルンゲンの歌」は、失ったアイデンティティの再来、そう映ったのかもしれない。物語がドイツ民族の精神とまで呼ばれるようになるには、そう時間はかからなかった。そこから、ナチス・ドイツによって利用されるニーベルンゲン伝説、という暗い歴史にも繋がってゆくのだが…、今は語るのをやめておこう。


ワーグナーは戯曲「ニーベルングの指輪」の中に、積極的に神話を取り込んだ。
「エッダ」に残るニーベルンゲン伝説の中には神は明示的に出てこず、かすかに、英雄ジークフリートがオーディンの血を引くことが語られ、ブリュンヒルデがワルキューレであると設定されるのみである。そこを神々の姿を明確に登場させることによって、より「神話」に近づけようとしたのだが、かえって神々を俗物にしてしまっている。
一度死んだ神は蘇らない。ひとたび単なる登場人物、物語上のキャラクターとして捉えられてしまった神は、どうしても人間と同じレベルに落ちてしまう。ワーグナーの試みの失敗は、それを実証していると思う。

ニーチェはそこに絶望した。失われた神は再生されない。
そこでワーグナーに見切りをつけ、自ら神を探しにゆくのだが、彼の求めるものは決して見つかることはなかった。冒頭の「もしも日本に移住していたら」とは、あるいは日本の、古来の神々との共存風景が、彼の求めたものではなかったかとの意味である。


フィンランドでは、リョンロットが散逸した口伝を集めて「叙事詩カレワラ」を編纂し、アイルランドではケルト復興運動が盛んになる。そしてドイツではニーベルンゲン伝説を核として、失われた古代精神を呼び覚まそうと試みた。
「ナショナリズムの時代」と丸めて表現してしまうと何のことやらわかりづらいが、ワーグナーが「ニーベルングの指輪」を書き、ニーチェやヘルダーリンらが"神"を求めた19世紀とは、そういう時代だったのだ。

古来の神々、古来の伝承、民族の象徴と呼べるもの―― 自国が自国であるという精神的証明。それらは、失っていることに気付いてはじめて重要だったことに気が付くものなのだと思う。そして、ひとたび失ってしまうと二度と再生は不可能なものなのだとも。
ニーチェやラフカディオ・ハーンが日本に思いを寄せた理由を、当たり前だと思っているモノの貴重さを、私たちは時に思ってみる必要があるのかもしれない。

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冒頭のフレーズは、こちらの本からです。

ゲルマン神話―ニーベルンゲンからリルケまで… (1972年)
読売新聞社
吉村 貞司

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