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スタンダール『赤と黒』 新訳めぐり対立、というニュースに食いついてみる。 うちにあるのは岩波版。このニュースを見たら、なんだか久しぶりに読みたくなった。 スタンダールの物語は学生の頃に一通り読んだ。たぶん現代人からすれば登場人物に感情移入しやすいと思う。「赤と黒」など、これは今風の絵柄でマンガにしたら若者受けするんじゃないかなー などと思ったくらいだ。 誤訳か、意訳かという問題は、読んでみれば意外と簡単な話だったりする。 昔「ニーベルンゲンの歌」の誤訳に突っ込みいれた時に言ったが、重要なのは、読んだときに前後と矛盾が出ていないか。雰囲気が壊されていないか。必要な情報が漏れていないか。 訳し手の解釈が間違っていれば「誤訳」になる。意味が分かっていて敢えて原文にない言葉を付け足したり、存在する単語をまとめたりするならば意訳になる。つまり、不自然でない範囲の改変は誤訳ではないと思っている。 私の語学力なんぞ微々たるものだが、「ニーベルンゲンの歌」の翻訳版は三種類持っていて、ひとつの単語に対し充てられる日本語のバリエーションを知っている。異なる翻訳はそれぞれ愛着があって、訳者による翻訳の違いや、どういうものが意訳で、どういうものが誤訳として許せない範疇に入るのかは、なんとなくわかっているつもり。 たぶん、世の中の愛好家の人たちの感覚からも、大きく外れていないと思う。作品のジャンルは違えど、きっと心は同じだ。彼らの声を聞こう。 と、いうわけで詳細な状況を確認。 ここが、批判を出した団体さん→日本スタンダール協会 会報こちら→会報バックナンバー ここの、No.18(2008/5)に、「赤と黒の誤訳」について具体的な指摘が挙がってます。 問題の箇所をただ書いてあるだけなので少し読みにくいのですが、まあなんとか内容は理解しました。 原文はよくわからんのですが、↓ここらは、完全に「誤訳」の範疇。 2.上168頁の「レナール夫人の寝室の扉で(・・・・・・)寝息が聞き分けられた」の原文は«à 3.下575頁の「サン=シモンの『回想録』のおかげでマシヨンも形なしだ」の原文は«LesMémoires de Saint-Simon m’ont gâté Fénelon»(798)である。「フェヌロン」をいったいどうやったら「マシヨン」と読み違えられるのだろうか。 この辺りは、スタンダール研究会の人が怒りを覚えるのも分かる。自分の好きな話でこういう適当な仕事をやられると、私もプチ切れるかも。ま、マニアの心理って大体同じですよねタブン。(笑) ニュース記事にちらっと書かれているとおり、どうも誤訳があったことは訳者自身がすでに認めて、修正を加えているようです。pdfファイルの末尾を見ると、実際に直した箇所が具体的に出てきます。 これは「指摘してくれてどうも有難う」と言うべきところでしょうねぇ…。誰だってミスはするわけだし、ミスは素直に認めないと、人間、成長できないと思うんだけど。 ただ逆に、↓この辺りはどうでもいいんじゃないかと思う。 「千フランなにがし(上145)」(«quelques mille francs »(415)「何千フランかの金」)、「レナール氏はいたたまれなくなった(上219)」(«ce mouvement singulierimportuna M.de Rênal»(450)、「レナール氏にとってうるさいだけだった」) *ごめん…原文よく見たら「正:1千フランちょっと → 誤:数千フラン」になってるのね。そりゃ確かに間違いだ。 この「誤訳がある」とされる本がいま手元にないので中がどうなっているのかは分かりませんが、誤訳指摘の会報を読む限り、指摘した方の怒りの根底にあるのは、どうもこういうことらしいです。 同じ本の中で野崎は「語学力不足を棚にあげて翻訳論も何もあったものじゃない。大抵の場合、翻訳書を読んでいて不自然だなと思うところは、原文を見れば誤訳ですよ。ほとんどの場合そうだと思うな。単純な誤訳の問題だと思う。それをまずクリアしないことには始まらないっていうのはありますけどね」(135頁)とも書いている。野崎訳『赤と黒』の誤訳もその多くが「語学力不足」による「単純な誤訳」であり、「不自然だなと思う」箇所にある。「それをまずクリア」しなければならないのは野崎自身である。 「大抵の場合、翻訳書を読んでいて不自然だなと思うところは、原文を見れば誤訳」というのは、まさしくその通りだと私も思う。実際、最初に書いたとおり、私自身、意訳と誤訳は全体を通して読んで不自然と感じるか否かを基準にしてますし。 読んで不自然な箇所が多かったからこそ、この下川という人も不自然な部分をすべて洗い出そうと思ったんでしょうね。 私的には、翻訳なんて一人でやるもんじゃないと思っている。 出版前に仲間や同僚、目上の人にも目下の人にも読んでもらって、意見を求めればいい。それは根回しとかじゃなくて、自分では決して気づくことの出来ない部分が必ずあるから。人の目を通せば、自分ひとりの時には思いもつかないことが見つけられる。過ちも、栄光も、共有すればいい。議論なくして発展はありえない。この訳者の人は、誰かに査読して貰わなかったのかな。 **** ところで、この件についての報道で光文社文芸編集部が出したというコメントなのですが、これが最悪。 「当編集部としましては些末な誤訳論争に与(くみ)する気はまったくありません。もし野崎先生の訳に異論がおありなら、ご自分で新訳をなさったらいかがかというのが、正直な気持ちです」 文句を言うなら自分で翻訳しろ = 翻訳できるなら文句を言ってもいい 出版社と訳者の存在価値を自ら否定。 「我々にはお客さんを満足させる訳は出来ません」と、自ら告白しているのに等しいし、自分で翻訳出せない人は文句をつけるなと言っているわけだ。文句をつける詳しい人は相手にせず、自分で翻訳できないから訳本を買っている読者には適当な仕事でもバレないから問題ない。という態度でもある。なんという悪手。 だいたい、訳の仕方や解釈についての議論が「些末な論争」だったら、文学者なんて要らないでしょ^^; 学者って、日々、そういうことを議論するのが仕事なんだけど…。 編集部自身が翻訳のクオリティはどうでもいいというスタンスを明らかにすることは、つまりどんな拙い仕事でもお給料がもらえるというわけで、翻訳した人のプライドも傷つけることになってしまう。 相手を言いくるめたつもりで実は自分に一番ダメージを食らわせている。ありがちなパターンとはいえ、議論するときに絶対に使ってはいけない論法ですよ…。 >>つづき |
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